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 それは酔った勢いのほんの小さな出来事だった――少なくともアスランにとっては。

 ゼミの仲間との飲み会に無理矢理借り出されたアスランは、珍しく酔っ払って家に帰ってきた。普段は飲み会の誘いは断るのだが、その日は教授の誕生祝という名目だったから断ることもできず、自分の研究論文が仕上がったことも口実にされてかなりの酒を飲む羽目になった。とはいってもアスランは酒に弱いわけではない。どちらかといえば強いほうだ。だが酒の席の独特の雰囲気が苦手だったからできるだけ断るようにしていたのだ。
 ほろ酔い加減で帰宅したアスランを迎えたのはいつものとおりにイザークだった。玄関のドアをあけるとイザークが立っていて、いつもと変わらない様子で「おかえり」と言いながら手を差し伸べてきた。それが自分が酔っているからだと気がついたアスランは笑いながらその手を取った。
「そんなに酔ってないよ」
「そうか。随分ご機嫌に見えるぞ」
 二人で深夜の階段を上がりながら小声で会話する。
「それは論文が仕上がったからさ。酒のせいなんかじゃない」
 だがそういうアスランの足取りは心なしか頼りない。それにイザークは苦笑して部屋の中まで付き添ってやる。
「水でも飲むか」
 ソファに体を投げ出しているアスランの上着をハンガーに掛けてやりながらイザークは言った。気分が悪くなるほどに酔っていないとはわかるがそれでもアルコールを分解するには水分は不可欠だ。
「うん、もらう」
 アスランの部屋にはイザークの部屋と同じにミニ冷蔵庫が置いてありその中にはミネラルウォーターが入っている。グラスを探したが見当たらないのでボトルのままそれを放り投げた。放物線を描きながらそれはアスランの手の中に納まった。
「珍しいな、そこまで飲むなんて」
 アスランの顔はいくらか赤くなっている。イザークの知る限り酒に強いアスランがそんなになったことはなかった。
「飲みたかったわけじゃない、飲まされたんだ」
「…だろうな」
 自分から進んで飲むくらいなら飲み会の誘いを断り続けるなどしないだろう。イザークもその手の誘いを断っているが、それは居候としての立場が大きい。アスランは何を気にする必要もなくいられる身分なのにイザーク以上に人の集まる場を苦手としていた。
「教授から祝いごとだって注がれたら断れないだろ」
「じきじきのご指名か」
 担当教授の覚えがめでたいといえばイザークとて変わらない。学会の打ち上げで同じように酒を注がれたこともあるからその気持ちもわからなくもない。
「ロバート教授は俺のことをわかってくれてるから無理強いなんてしないさ。けど、ミスカの奴が強引に」
 言うといつの間にか空になったボトルを床に放り投げる。
「連日の徹夜がまずかったよ。思ったより回ってるな…シャワー浴びたいのに」
 額を押さえながら呻くような声にイザークは向かいのソファからため息をついた。
「それでシャワー浴びたら死ぬぞ、あきらめてベッドで横になれ」
 徹夜明けというのなら丸一日動き回っているからそれなりに汗もかいているだろうが、この状況じゃ無理な話だ。
「久しぶりにイザークとゆっくり話せると思ったのに、台無しだ」
 相変わらず額を押さえたまま気落ちした声で言う。このところアスランは論文の締め切りが近くて研究室に缶詰状態だったから家には数日ごとに着替えに帰ってくるだけだった。
「俺はいつだってこの家にいるんだ。今夜話さなくても問題ないだろう」
「けど、楽しみにしてたのに…」
 まるで駄々っ子のようだとイザークは苦笑する。やはり酔っているらしい。いつもはいい弟であり優等生でいるはずのアスランが拗ねた口調で食い下がるなんて。
「あぁ、わかった。じゃあアスランが寝るまで介抱してやる。だからベッドに横になれ」
「介抱…」
「不満か?酔っ払いに付き添って相手をしてやることを言うんだと思ったが」
 立ち上がりながら言うイザークに引っ張りあげられながらアスランはなにやらぶつぶつと言っている。
「アスラン?」
「介抱っていうなら優しくしてくれるんだよね」
 同時に腕をイザークの首に回してきた。さっきより酔いが回ったのか芝居なのかよろめく足を言い訳にしてその体重を随分と預けながら。
「おい、重いぞ」
「介抱なんだろ」
 そんなやりとりをしながらアスランの体はベッドへと引きずられていく。ズルズルと文字通りに床の上を引くようにしながら。
「体重はアスランの方があるんだぞ」
「知ってる。俺の方が筋肉質らしいからね」
 筋肉は重い。だからアスランは重かった。イザークより背が低いのに。
「ほら、到着」
 上掛けが敷かれたままのベッドにアスランの体を放り投げるとまるで一仕事終えたようにイザークは肩をほぐすように上下させた。
「投げるなよ、酷いな」
 体を起こしながら唇を尖らせる。その様に笑い出しながら監視するように目の前に立ってその先を促す。
「服は自分で脱げよ」
 拗ねながらも黙ってそれに従うとアンダーウエア姿になって毛布を捲くってシーツの間に酔っ払いは滑り込んだ。
「さて、俺はどうすればいい?」
 介抱とは言っても何かを手助けする必要があるわけじゃない。要はわがままに付き合ってやるというだけでイザークにはすることがなかった。指示を仰ぐと酔っ払いは毛布を持ち上げる。
「一緒に寝よう、昔みたいに」
「一緒に…?」
「俺が眠るまで付き合ってくれるんだろ。だったらそれくらいいいじゃないか」
 朝まで一緒にいてくれとは言わない。そういわれてイザークは小さく息を吐くと履いていた靴を脱いだ。
「早く寝ろ」
 銀色の髪がすぐ隣に寄り添ってアスランはご機嫌になる。
「昔はいつも一緒に寝てた」
「あぁそうだな」
 この家に引き取られてからしばらくイザークが寂しいだろうとアスランはそのベッドに潜り込んで来ていた。本音を言えばアスランがベッドの真ん中を占領してしまうし、誰かと寝ることに慣れていないから一人にしてくれたほうがよかったのだが、イザークは一度も追い出すことをしなかった。自分をあの冷たい路上から救い出してくれたのは他ならないアスランだったし、あれこれと世話を焼いてくれるアスランの優しさが嬉しかったから、彼がしたいと思うことはさせてあげたいと思ったのだ。
「イザークは起きてからきちんとベッドを整えるのに、って俺が母さんに怒られてたけど」
 思い出してクスクスと笑うアスランに釣られてイザークも笑う。
「そういえば、俺のベッドで寝て一度もベッドを整えたことなかったな」
 アスランは朝が苦手だ。だから起き上がってからしばらくはぼうっとしていて、その間にいつもイザークがテキパキと毛布とシーツを整えてしまっていた。
「いいじゃないか、そんな昔の話」
 頭の下に腕を組みながら不貞腐れる。それに苦笑したイザークは体をアスランに向けてから眉を顰めた。
「ほんとに酔っ払いだな。酒臭いぞ、お前」
「だから!俺は飲みたかったわけじゃないって…」
 反論に向き直ったアスランとイザークの目が合った。それは吐息のかかる距離でイザークが何か言おうとする。だがその言葉よりも先にイザークの唇は塞がれた。アスランのそれによって。
 そっと押し付けられただけキスにイザークは抵抗しなかった。少し驚いた顔をしただけで小さく口の端をあげる。
「そういえば、ベッドに潜り込まれるだけじゃなく、キスも押し付けられたな」
「そんなこともあったっけ」
 アスランはイザークが大切で、大切で、とても大事だったからキスをしたのだ。それは幼い子供の精一杯の愛情表現だった。
「あぁ、まるでペットの犬に押し付けるみたいに」
「イザークはペットなんかじゃない、もっとずっと大事だったんだ」
「わかってるさ、そんなの」
 小さなアスランはとにかくイザークのことに一生懸命でそれが上手くいくかどうかはともかく、必死な様子に大事に思われてることがよくわかった。やり方が不器用でもアスランがしてくれることはずべてがイザークには嬉しかったから。
「ほんとに、ペットなんかじゃないんだ。イザークはイザークで、だから」
 もう一度唇が重なる。受け入れられたそれに恐る恐るアスランが舌を差し入れると拒絶はなかった。舌を舐めるとビクッと身体が震えたが、それでもイザークは抵抗しない。キスは深く熱くなる。吸い上げると答えるようにイザークが絡みついた。
 そしてアスランは確かに酔っていたのだ。
 きっと素面ならそこで止まっていただろう。子供の頃とは違うキスだけで終われば笑っていられたのかもしれない。
 だが、アスランは酔っていて、そのキスが止まることはなかった。
 深く絡み合う舌にアスランの理性は溶かされていく。アルコールがなければきっとそこまで暴走することはなかったはずだ。それほどアスランは意志の力で自分を制することに慣れていた。だが、疲労とアルコールがその力を弱めていた。
 手が、伸びた。
 唇が喉を這い、シャツの下に手のひらが滑り込む。キスが胸を降りてその手がベルトを外してもイザークは抵抗しなかった。それは全てを受け入れてくれるという意味だとアスランは理解した。
 だが。
「…っ!」
 ズボンごと下着を下ろしてその手がイザーク自身に触れた瞬間、アスランの身体が突き飛ばされた。一気に酔いがさめたアスランの目にはおびえたような姿が映る。膝まで脱がされたズボンがそのままで痛ましくさえ見えた。
「ご、ごめんっ…、イザーク…」
 慌てて謝るアスランに無言のままイザークはベッドを降りた。
「イザーク…!」
「早く寝ろ」
 一言だけ言い残すとその姿は廊下に消える。
 部屋にひとり残されたアスランは一歩も動くことが出来ず、ただベッドの上に座り込んでいた。









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