◆◆◆ 記憶に残っている限り、それは人生において最初で最後の我がままだ。 泣きながらアスランが案内し、道端に行き倒れている子供は保護された。婦人会のメンバーによって病院に運び込まれ、栄養剤の点滴を受けてその子は入院することになった。 大きな病気もないという検査の結果にアスランはもちろん大人たちは安堵したが、そうなるとその子供の身元についての疑問があがった。 プラントといえども様々な事情から親と暮らせない子供は多く、そういった子供は施設に預けられ育てられるのが普通である。だからあの子供のように街中に一人でさまようなど通常はありえないことだった。 「そういえば、あの子供に似た子を何年か前にマティウスのどれかのコロニーで見たことがあるわ」 一人の婦人が思い出したように廊下の椅子に座りながら言った。 「それはどこかの施設にいたということ?」 レノアが言うとその婦人は頷く。 「肌の白いキレイな子でね、施設の園長も賢い子だと褒めていたわよ」 「でもマティウスのどこかというのなら、ここまで一人で来たというのかしら?」 ディセンベルのコロニーの一つであるこの街に子供が一人でやってくることは不可能ではない。プラント間のシャトルは市民の足として無料で運行されていて座席指定の乗車券を手にすればどんな小さな子供でも乗ることができるのだ。だが小さな子供が施設を家出してまで別のプラントに移るなんてどういうことなのだろう。 「何か事情があるのかしら・・・」 レノアは呟き、自分の息子が付き添っている病室のドアを見やった。 点滴の針が打たれた腕は細く、驚くくらいに痩せていた。 汚れた衣服を脱がされて病院着に着替えさせられると隠れていた腕が露になってアスランはショックを受けた。 イザークと名乗った少年は今はぐっすりと眠っている。そう、あの子供は男の子だった。何故だかアスランは頭のどこかで女の子だと思ってしまっていたけれど、その理由は瞳がきれいだったからだろうと思っていた。会話になるほど言葉を交わしていなかったし、何よりあのきれいな瞳が強く印象に残っているから。 今は目が閉じられているからあのブルーを見ることは出来ない。脇に置かれた椅子に行儀よく座りながらアスランはもう一度あの瞳を見たいと思った。そしてちゃんと話をしてみたい、と。 「様子はどう?」 「母さま・・・」 病室に入ってきた母親にアスランは「ずっと眠ってる」と答えた。 「ねぇ母さま、この子どうなるの?」 ずっと気になっていたことを訊ねると、母親の顔が複雑な表情になった。 「どこかの施設に引き取られることになるわね」 思っていた通りの内容にアスランは眠っている少年の顔をじっと見た。 「なんでこの子はあんなところにいたの?」 「母様にもわからないわ。でも、この子も元々はどこかの施設にいたはずなのよ」 最初から一人だったわけじゃないのよ、と母親は説明したけれど、アスランは聞いていなかった。 「ねぇ母さま、施設にいる子はどこかのおうちに引き取られることがあるんだよね?」 慈善活動で行く先には子供の養育施設もあって、そこのシステムもアスランは知っていた。子供の出来ない夫婦に望まれて引き取られることもあるということもそのときに聞いた話だ。 「えぇそうよ」 頷いた母親にアスランは正面から向かい合って、そして勇気を出して切り出した。 「お願い、母さま。僕の一生のお願いです、この子をうちで引き取ってください」 「アスラン?」 母親の顔をじっと見て、それから頭を下げる。アスランは必死だった。 そんな息子の表情をレノアは見たことがなかった。いつも聞き分けのよい子だが、何にも興味がないようで子供らしくなく心配になったこともあるほどだった。 「どうしてそんなことを言うの?」 しゃがみこんでレノアは息子に訊ねる。 「この子は施設にいたのかもしれないけど、帰りたくなかったんだと思う。施設はいいところかもしれないけど、この子には嫌だったんだよ。だってあんなふうに一人でいるなんて・・・」 言いながらアスランはポロポロと涙をこぼした。靴を履かせたときの足はびっくりするくらい冷たかった。あんな風に寒くて冷たいのにどこにも帰りたくないなんてかわいそうだ。そして今、ベッドの上の腕は痩せて折れそうなくらいに細い。 「アスラン…」 「お願い、母さま。どこかのおうちに引き取られるなら僕の家でもいいんでしょう? この子を引き取ってくれるなら、僕は我がまま言わないから、オモチャも自転車もいらないし、お部屋ももっと狭くていいから、だからお願いします」 あまりにも必死な様子にレノアは何も言えなくなった。驚きと少しの喜びと困惑と。 息子がこんなに必死になることがあるなんて、優しい気持ちを持っていてくれたのは嬉しいけれど、引き取るとなればそれはまた別の話だ。 「かあ様…」 涙をいっぱいに溜めてアスランは正面から見つめてくる。その息子を母親は抱きしめた。 「父様に相談してみましょう。母様も頼むけれど、あなたがちゃんとお願いしなさい」 「うん…、僕、絶対に許してもらうようにお願いする」 あのとき。 アスランが差し出した手に少年の手は届かなかった。 でも、今度こそアスランは手を差しだしてしっかりとその手を握り締めたかった。そうしてもう一度あのキレイな目で笑ってほしい――そう思ってアスランは眠ったままの少年の手をぎゅっと握り締めた。 「ここがあなたのあたらしいお家よ」 「家?」 自分の手を引いた紺色の髪をした女の人がそう言ってドアを開けるとそこには見たことがある子供がいた。 「いらっしゃい、イザーク。待ってたんだよ」 女の人と同じ顔をして笑うその顔は、あのとき自分に靴を履かせた子だ。名前は確か――。 「アスラン・・・?」 口にした名前にその子は顔をくしゃくしゃにして笑うと、まっすぐに自分のところにやってきて、そして飛びついてきた。 ぎゅっと抱きしめる腕にただただびっくりしていると、その子はやっぱり笑いながら嬉しそうにもう一度名前を呼んだ。 「イザーク! 覚えててくれたんだ」 「うん・・・」 そして訳がわからないままの自分にもっとびっくりするようなことを言ったのだ。 「君と僕は今日から兄弟だよ。ずっとずっと一緒にいられるんだ」 夢かと思った。 嘘だと思った。 でも、それは夢でも嘘でもなくて、優しく笑う母親とニコニコしている少年の家で、その日からイザークの新しい暮らしは始まったのだ―――。 -4- |