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 今でも忘れられない。
 あれは雨の降る寒い日だった。

 母親に月の一度の婦人会の慈善活動に連れて行かれたアスランはその日もおとなしく言うことを聞いていた。着る物のない人にリサイクルのシャツとズボンと下着のセットを渡して、配膳の手伝いもやった。けれど、正直いうとそれは子供には退屈な時間だった。遊びじゃないのだから途中で放り出すわけにもいかないけれど、でも黙々と作業をするには子供にとってはあまりにも長い時間だった。それでもアスランは終始おとなしくしていた。自分がわがままを言い出すと母さまが困るから。とにかくおとなしく言うことを聞いてその日の活動が終わることだけをじっと待っていたのだ。
「アスラン、母様はお話があるから少し待っていてちょうだい」
 夕方近くになってすべての活動が終わり、ようやく帰れると思ったアスランに母親はそう告げて、少しでも早く帰りのシャトルに乗り込みたかったアスランは不満を言いそうになって慌てて口をつぐんだ。
「わかりました、母さま」
 ここでわがままを言ってしまっては一日の我慢が台無しだ。仕方なくアスランは外に出てみる。今日の活動はこの地域の市民センターでいつも行く教会や寺院に比べれば町の中心部にあるだけマシだ。目の前のとおりを歩いている人を眺めているだけで少しは気が紛れそうだった。2階にある玄関をでたポーチからアスランは歩いている人たちを眺める。母さまはよく「あなたは食べるものにも着る物にも困らない恵まれた立場なのだから上から人をみてはいけません、人を見るときは目線の高さを同じにしなさい」と注意していたけれど、立っている場所が高いんだから仕方ないよ、と思いながら忙しそうに歩いている人をアスランはなんとなく見続けていた。
 母さまの話は思ったよりも長引いているようで最初はおとなしくしていたアスランはやがて時間をもてあましてしまった。もともと一日中退屈していてこれ以上おとなしくしているのは無理だった。雨が降りだしそうな空を一瞬眺め、帰ってくるまでは大丈夫かなと考えてから玄関につながる正面の階段を駆け下りた。どうせ場所はわかっているのだ。このあたりで一番高い建物なのだから迷っても帰って来られる。そう思ってアスランは見知らぬ町に飛び出した。

 その町は住んでいる町ほど大きくはなかったけれど、いつも慈善活動で行くところよりは大きくて栄えていた。慈善活動というのは中心部から離れたところにある施設ばかり回るから、アスランにはこの街が楽しそうに思えた。いつも家にいるときには外であまり遊ばないからこういうときは逆に外に行ってみたくなるのだ。
 いろんな店が並ぶメインストリートを歩いていると、音楽ショップの女性店員がキャンペーン用の風船をアスランに差し出してきた。戸惑いながらアスランはそれを受け取る。いつもはそんなことしたら母さまにどう思われるだろうと気にして興味のない振りをしていたけれど、今日はいつもの町じゃないからなのか素直にそれを手に取った。店員がにっこりと笑ってくれたのでアスランはなんだか恥ずかしくなって早足でそこから駆け出した。
 食べ物を売っている店はとっても魅力的だったけれど、お金を持っていないアスランは何も買うことができない。アイスクリームとかハンバーガーとかおいしそうなものがいくつも目に飛び込んでくるのを必死で気にしないようにしながらそれでもいろんな店が楽しくてアスランは風船を手に軽い足取りで歩いていた。
 町へ出てから20分くらいしたころ、空の色も暗くなってきてさすがに帰ろうかと思ったところでアスランは近道をしようと細い路地に入ってみた。方向感覚には自信があったし、大きな建物はどこからだって見えるからなんとなく冒険してみたくなっていつもなら行かないような狭い道へと曲がったのだ。少し暗いその道は、表の店の裏口がいくつか並んでいてきれいとはいえなかったけれど、それでもアスランには楽しかった。
 そして角を曲がろうとしたときだった。
  !
 曲がった先に気配を感じてアスランは身構えた。立場上、誘拐犯に対する訓練を受けていたからそれは反射的なものだった。 
 だがアスランが警戒した先に見たのは誘拐犯ではなかった。びっくりして凍り付きそうになったアスランは手にしていた風船を放してしまう。それから深呼吸をして落ち着きを取り戻した。
 足元にうずくまっているのは小さな子供。
 たぶん自分と変わらないくらいの年齢だけれど、その姿は信じられないくらいみすぼらしいものだった。母親の慈善活動についていって似たような大人はいくらでも見たことがあった。けれど、こんな小さな子供なんてアスランは見たこともなかった。着ているものはボロボロで、丸めた足元には靴下はおろか靴さえなかった。ピクリとも動かない様子に死んでいるのかもしれない、と一瞬アスランは思い、恐る恐るその子供に近づいた。
「ねぇ君・・・」
 このときなんで声をかけたのかアスランにさえわからない。きっといつもなら知らない振りをして通り過ぎてあとで母親に教えていたくらいだ。なのにどうしてかこのときは声をかけないではいられなかった。
「ねぇ・・・!」
 答えない子供にさらに大きく声をかける。するとアスランの目の前でその子供はびくっと反応し、その目を開けた。

 信じられなかった。
 信じられないくらいキレイな瞳だった。
 顔も洋服も薄汚れていたけれど、その瞳は透き通るブルーで宝石のようにキレイな色をしていた。それがまっすぐに、けれどおびえたようにアスランを見ている。
「きみ、孤児なの?」
 大人だったらこんな失礼なことはきっと言わないだろうがアスランはまだ子供だった。履くものもなくて道端に蹲っているなんて孤児以外には考えられない。長い髪の毛もべっとりと汚れて結ってもいないのにところどころ束になっている。
 その子供は体を起こしながら膝を抱えるようにした。そしてアスランを睨むようにして見る。
「…」
 それでもその子供は何も言わない。冷たそうに足の先を丸めると汚れた手で温めるようにそれを包んだ。それを見ていたアスランは慌てて自分の靴を脱いだ。
「これ履いて!」
 戸惑うような顔をしているその子供に構わずにアスランは自分の靴を無理やりに履かせる。アスランより足が大きくてスニーカーはサンダルのように踵を踏むことになったけれど、それでも冷えた足先には十分な防寒になってその子は少しだけ嬉しそうな顔をした。アスランは靴下でコンクリートに立つことになったけれど、寒いとか冷たいだとかは不思議と思わなかった。
「僕はアスラン、きみは?」
「おれ、は…イザー、ク…」
 そう言うとその子はアスランが伸ばした手に触れようとしたがそれが触れる寸前にコンクリートに倒れこんだ。
「イザーク?!」
 知ったばかりの名前を呼んでみてもその子は起きる気配はない。慌てて体を揺すってみると肌は温かく呼吸をしているのはわかった。そして小さな体から聞こえたのは空腹を訴える派手な音。
 お腹が空いてるんだ。
 そう思ったアスランは母親のところに連れて行こうとイザークを抱き上げようとしたが子供の力では無理だった。
 どうしよう、どうしようっ。
 パニックになりそうな頭を必死で働かせるとアスランは自分が着ていた上着を脱いでイザークにかける。そして靴下のまま市民センターに向けて駆け出した。
 空からは冷たい雨が降り始めてきた。
 急がなきゃ。
 早くしないとあの子が死んじゃう――!!
 5分以上走り続けてようやくたどり着いた建物では用件の済んだ母親が姿の見えないアスランを探しているところだった。
「アスラン、どこに行ってたの? あなたその格好どうしたの?」
 上着も靴もなく泣きながら走ってくる息子の姿にレノアは問いかける。いつもなら母親に心配をかけないことを一番に心がけているアスランだったけれど、今はそれどころではなかった。
「母さま、母さま、助けて!! あの子が、あの子が死んじゃう…!」






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