◆◆◆

「まさか、ここにもう一度くることがあるなんて思いもしなかった」
 イザークは敷地の入り口に立ってその白い建物を見上げた。
「ここが君の育った場所なんだね」
「あぁ、ここの玄関に捨てられていたんだ」
 二人はイザークが飛び出したマティウスの養護院にやってきていた。

 アスランとラクスの婚約の話はディアッカの狙いの通りに白紙に戻った。ベッドの中の歌姫の会話はあまりに衝撃的でそのイメージは地に落ちた。いくら議長の娘とはいえ、そんな女を自分の息子と婚約させるわけにはいかないとさすがのパトリック・ザラも頭を抱えた挙句にアスランの反対を受け入れたらしい。これは母親も息子を思って賛成できないと強く意見したのも理由のようだ。
 それから一月後にアスランとイザークは正式に家を出た。カレッジを卒業するまでの期限付きだったがそれは許され二人は一緒に暮らし始めた。イザークはマスターコースに進むつもりだったし、アスランも今の工学専攻を終えたら政治学を専攻して再入学するつもりだったから、まだしばらく二人きりの時間は続くはずだった。

「もう二度と来ることはないだろうと思っていたのに」
 楽しい思い出もあったはずなのに、記憶の中で辛い過去を消し去るときに全てを一緒に封じ込めてしまったのだ。
「それでも、君の故郷には違いないんだから。来るべきだったんだ」
「そうだな。・・・過去をなかったことにして生きていくのは人には難しいことなのかもしれない。忘れたフリをしても必ず自分の中に残っているのだから」
 門を開けて中に入る。幼い頃の記憶のままに建物の近くには花壇があり、ドアの前にはおもちゃのクマの石像があった。子供達に触られて片方の耳はかなり磨り減っているようだ。
「入るのか?」
 アスランに聞かれてイザークは頷いた。玄関にチャイムはない。ここは誰もの家なのだからとロックはかけられていないのだ。
「誰か知っている教師がいるかもしれない」
 イザークはある日突然飛び出したから身の回りの荷物は全てここに残したままだった。何かが残っているとは思わないが、あのことを覚えている人間がいるのなら一言謝りたいと思ったのだ。
 ドアを開けると昔のままの廊下が続いていた。左側に職員室、その奥が食堂で突き当たりの階段を上がると子供達の部屋がある。イザークが暮らしていたのは2階の六人部屋で、一番広い部屋だった。
「失礼します。どなたか・・・」
 アスランを伴ってイザークは職員室のドアを開けた。中にいた数人の女性が振り返る。
「はい、何か御用でしょうか」
 若い教師が言って近寄ってくる。イザークの記憶にはない顔だ。この年齢からすると当時はまだ学生だろう。
「私は以前こちらにいたものですが、どなたか当時のことをご存知の先生はいらっしゃいますか。10年くらい前になりますが」
「10年前なら院長先生が」
 その女性が振り返って促すと、窓際に独立したデスクがあった。たしかにそこは昔も院長が座っていた場所だ。
「院長先生、お客様が」
 声をかけられて顔を上げた女性の顔にイザークは言葉を失う。その顔は知っていた。さすがに年齢が増した分だけ変わってはいるが、それでもその印象は変わらない。
「メグ先生・・・」
 女性の名前はマーガレット。事故で子供を亡くしたという彼女はあの頃、小さな子供を担当していたはずだ。自分達未就学児を中心に本当の母親のように世話をしていた。
「あなた・・・まさか・・・」
 自分の呼び名を口にした少年に彼女は目を細める。記憶の糸をたどるように目の前のイザークと記憶の中の生徒のリストを照らし合わせているようだ。
「イザークです。10年前の秋、ここを突然飛び出しました」
 それにハッと顔が変わる。何者だと見守るほかの教師達の目を気にせずに、院長は両手で頬を押さえた。
「ああイザーク!そうよ、あなたはイザークだわ。よく覚えているわ、その銀色の髪に青い瞳・・・あなたが戻らなかった日のことも忘れたことなどなかった」
 信じられないものを見るかのようにゆっくりと歩み寄って手を伸ばし院長はその手を力いっぱい握り締める。それから二人は応接室へと案内された。
「あの日、寒くなったのにあなたはいつまでも戻らなくて。一緒に出掛けたはずのクリスとヨハンは知らないと言っていて。先生方で探しにでても結局は見つからなくて。警察に届けたけれどあの日は大きな事件があったから後回しにされてしまって・・・。まさか無事でいるなんて・・・もう生きていないのだと思っていたわ」
「メグ先生・・・すみません・・・。俺はここに戻りたくなかったんです・・・」
 涙を浮かべながらイザークは告白する。
「えぇ、えぇ、わかっています。クリスとヨハンのせいなのでしょう。イザークがいなくなってから、ラルフが・・・あなたと同じことをされて私達に話してくれたから全てがわかったのよ。あの二人は少年院に送致されたわ」
 知らなかった事実にイザークは言葉を失った。
「そう、だったんですか・・・」
「えぇ、だからあなたには辛い思いをさせてしまったと私達は胸を痛めて・・・あれからずっと何年もあなたが帰ってくる日を待っていたのよ」
 イザークよりもたくさんの涙を流して院長は目の前の成長した青年を抱きしめた。
「よかった・・・あなたが無事でいてくれたことだけでも嬉しいのに、こうしてここに来てくれるなんて・・・あなたには辛い場所だったでしょう」
 懐かしい自分を抱きしめる腕にイザークも抱きしめて返す。
「それでも俺の故郷だから・・・ずっと来たくなかった場所だったのを彼が変えてくれたんです」
「イザーク・・・」
 自分をそんな風に言われてアスランは戸惑う。あの日以降の出来事を全て話して、兄弟のように育ってきたことを院長は嬉しそうに聞きながら、紺色の髪をした育ちのよさそうな少年に院長は優しいまなざしを向ける。
「そうですか。それはありがとうございます。私はイザークの母親代わりですから、彼を救ってくれたことに心から感謝します」
「いえ、そんな」
 恐縮するアスランに院長は思い出したように顔をあげた。
「そうだわ。まさかこんな日が来るとは思わなかったけれど、あなたに渡すものがあるのよ」
「渡すもの・・・?」
「えぇ。あなたの当時の荷物もいくつかは取ってあるけれどそれよりもずっと大切なものよ」
 そういって席を立ち、しばらくすると院長は応接室に戻ってきた。その手には小さなジュラルミンの箱がある。
「これは?」
 手渡されたイザークが恐る恐る蓋を開く。鍵は掛かっていなくてそれは簡単に開けることができた。
「あなたがいなくなって3年くらいしたころかしらね。地球から届けられたのよ。あなたをここに置いていった方の娘さんが差出人だったわ。その方のお父さんが亡くなられる間際にあなたのことをとても気にしていらしたんですって。自分や家族がこれ以上コーディネーターに振り回されることがないように、身元に繋がるものは一つもない状態であなたを置いていったけれど、たとえコーディネーターでも人間なのだから、自分の親を知る権利はあるだろうって。酷いことをしてしまったとずっと悔やんでいて、最後にはこれらを届けるように頼んだそうよ」
 遺言だからと届けられたそれには、何枚かの写真と紙が入っていた。写真を覗き込んだイザークはこぼれそうなほど目を見開く。
「これは俺・・・とおかあさん・・・?」
「えぇ、あなたのお母さんとその方の住民データよ。お母さんは第一世代のコーディネーターだから地球のご両親のところの籍にデータが残っていたのよ」
 イザークの祖父母にあたる家の住民データに娘として記載されている名前がある。
「エザリア・ジュール・・・」
「あなたのお母さんの名前よ」
 初めて聞く名前なのに、なんだかそれがしっくりとくる。写真の中で赤ん坊の自分を抱いている女性は自分と同じ銀の髪にブルーの瞳をしている。
「宇宙工学の研究者だったそうよ」
 親が事故で亡くなったのは聞いていた。ただそれが事実として刻まれていても、その人がどんな人で自分につながりのある人だというのは実感がなかった。物心ついたころから施設にいて、家族というものを知らなかったからだ。ザラの家に引き取られてから家族を知っても、それと同じものは自分にあるなんてうまく想像ができないままで。だけど、目の前の人が母親だというのは生まれたときから知っていることのようだった。違和感もなく、ずっと前から自分はこの人を知っていたような気がする。
「お母さん・・・」
 イザークは呟いた。それから下を向いて嗚咽を必死に堪えている。それを見ていたアスランは嬉しそうに微笑んだ。
 まるでパズルのピースが全て埋まっていくのを見ているような気分になって、アスランは涙が溢れそうになってしまう。自分のことじゃないのに、自分のことよりもずっと嬉しい。
「よかった」
 アスランが思わず漏らした声に院長が頷く。
「えぇ、今日は本当にすばらしい日だわ」





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