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 閉ざしたドアの向こうで気配が消えてからしばらく、イザークは昔のことを思い出していた。
 自分の人生はあの日、アスランに拾われてから始まったのだと思ってきた。それ以前のことは全て忘れたつもりになって。だが結局、忘れてなどいなかったのだとあの夜に思い知った。
 アスランのためなら、アスランのしたいことなら何でも叶えてやりたかった。キスが深くなっても拒絶の気持ちは起こらなかったし、アスランが求めるならそれ以上だって受け入れる気持ちはあった。
 なのに、体がそれを拒絶した。忌まわしい記憶は奥深くに眠り続けていて、アスランの手が触れた瞬間に全ての記憶が蘇ったように嫌悪の感情が沸き起こり気が付けば反射的に突き飛ばしてしまっていた。アスランは驚いた顔をしていた。だがそれ以上にイザークは自分のしたことに驚いていた。自分がまだあのことを、あのときの恐怖を忘れられずにいることが。アスランを突き飛ばしてしまったことが信じられなかった。
 アスランが自分を大事に思っているその気持ちが兄弟としての情を超えたとしてもイザークには不思議じゃなかった。それは自分も同じだからだ。アスランはとても大切な存在で、彼のためなら全てを投げ出すこともできる。成長に伴ってその気持ちが特別な感情になり、プラトニックで収まらなくなったとしてもそれは自然なことに思えた。
 だから、いつかそんな日が来てもイザークは受け入れるつもりだった。アスランは特別だったから、アスランなら大丈夫だと思っていたから――。
「もう忘れていたのに」
 積み重なった幸福な記憶が辛い過去を忘れさせてくれた。いつも傍にいるアスラン。優秀なのに不器用で一生懸命なアスラン。自分を救い出してくれたアスラン。それなのに自分はあんなことをしてしまったのだ。
 誰もイザークの過去は知らない。だから突き飛ばしたことは単なる拒絶としか思われないはずで、そのことでアスランを傷つけたに違いなかった。
 だけど――。
 どうしても、あの過去のことを話すことはできなかった。穢れた人間だと思われてしまうのが怖かったし、今まで何もないただの孤児として嘘を吐き続けていたことを知られるのは辛かった。
 この家にいられなくなるのに備えてはいたが、それは卒業と同時だと思っていたのにもう限界も近くてザラ家を出る時期を卒業よりを早める必要があると思ったから教授に就職の紹介を頼んだ。
 自分がアスランを受け入れられない以上、アスランの近くにいる資格はない、近くにいてはいけないと思うのだ。彼の気持ちに応えられないのなら、彼をもっと深く傷つけてしまう前に、自分は去るべきだと――。
 そう決めてからイザークはアスランを避けている。まともに彼の顔を見てしまえば、決心が鈍ってしまいそうだったから。アスランに理由を問い詰められたら自分の過去を話してしまうかもしれないから。それらを仕舞いこんで何事もなく振舞うには、イザークにとってアスランは近すぎる存在だった。近くて大切な人だから、その人を守るための嘘さえ上手に吐き通す自信もなかったのだ。
「あと何日続けられるか」
 こんな不自然な状況は数日が限界だろう。同じ家に住んでいるのだ。顔を合わせないための理由もすぐに底をつく。いっそディアッカの家にでも転がり込もうかとも考えたが、その日のうちにでもアスランが押しかけてくるに決まっている。ディアッカに迷惑をかけることもしたくないから結局この家にいるしかなかった。
 






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