そして世界はまわり始める




 この世界はニセモノだ。
 ニセモノの俺が見る偽物の世界。
 きっとどこにも本物なんてないに違いない、偽りだらけの狭い世界。





 アスラン・ザラが嫌いだった。
 その存在をはっきりと知る以前に、彼の出自を聞いたときからすでに印象は良くなくて。
 そして、アカデミーの入学試験で自分を抑えて主席を取ったのがアスラン・ザラだと知って実際に会うより前にその印象は「最悪な奴」に変わった。だから顔を合わせるときにはその存在を一切無視してやると決めていたし、最初の頃は本当にその顔をほとんど見たことがなかったのだ。


「イザーク、どこ行くんだよ?」
 同室のディアッカがトレーニングウエアに着替えたイザークに尋ねる。その服装を見れば行き先など分かるだろうに、ディアッカの問いは癖になっているようなものだった。
「見れば分かるだろう、トレーニングルームだ」
 首からフェイスタオルをかけて振り向く顔は涼しげだ。さっきまで水泳の授業で30キロを泳いでいたとは思えない。
「お前の体力は化け物並みかよ」
 ベッドの上で体を投げ出してすっかり疲労困憊でディアッカは言うが、イザークに言わせれば自分などまだまだ鍛錬が足りないということらしい。
「俺が化け物ならアイツは怪物か悪魔だな」
 そういう顔はアイスブルーの瞳そのままにクールな表情だ。水泳の授業でイザークはアスランに勝てなかった。30キロ遠泳の課題で五分以上も差をつけられたのだ。水泳に自信があったイザークはプライドを粉々に打ち砕かれたに違いない。それを受けての自主トレーニングなのだろう。
「それは俺には関係ないけどね。ま、あんま無理すんなよ。明日は手先を使う爆薬処理だろ、筋肉疲労で痙攣起こしたらまたアイツに負けるぜ」
 からかって笑うディアッカに構わずイザークは部屋を後にした。



 こんなはずじゃなかった。

 アカデミーで自分が主席を取れない科目があるどころか、ことごとく二位に甘んじることになるなんて、志高く入学したイザークの計画は台無しになっていた。

 すべてはあの少年のせいだ。
 藍色の髪の年下の少年。

 トレーニングルームには何人かの生徒がいたが、イザークの姿を見るとそそくさとその手を止めていく。
「おい、ちょっ、イザークだ、やめとこうぜ」
「あぁ、あいつには近寄らない方がいいしな」
 その生徒たちがイザークの姿を見てそんな会話を交わす。イザークはアカデミーでは有名だった。その優秀さも見かけの美しさもそうだが、見かけ以上にクールな性格が人を寄せ付けず、彼の母親の名前もあって同級生たちからは遠巻きにされている存在だった。下手なことをすると卒業後に最前線に配置されるという噂まで出回っていてたいていの生徒がイザークとの係わりをさけようとする。それはイザークの耳にも届いていたが本人は気にするわけでもなかった。言いたいやつには言わせておけ、それがイザークのスタンスだ。
 イザークが入り口で立ち止まっていると、トレーニングを止めることなくいる一人の少年がその存在に気づいて振り返った。気配を消し忘れたままそこで突っ立っている自分も間抜けすぎるとは思ったがそれを表情には出さないままイザークは視線を向ける。
「やぁ、君も自主トレ?」
 何も気にしないで声をかけてくる存在にイザークは無視を決め込んだ。構わずにウエイトをセットしてシートに座る。そんなイザークにその少年―――アスラン・ザラは小さく息をつくと自分もトレーニングに戻っていく。

 二人の間に会話はなかった。
 淡々と自分の決めたプログラムをこなしていくだけだ。アスランは時折モニターで成果をチェックしながらやっているようで手をとめて汗を拭いたりドリンクを飲んだりしている。イザークは逆にがむしゃらになって止まることはない。そんな様子をアスランは見ていたが何も言うことはしない。イザークに何かを言えるのはルームメイトで昔からの知り合いというディアッカか意外と肝が据わっているニコル、それに何にもこだわらないラスティくらいのものだ。

「あれ、アスランここにいたんだぁ?」
 黙々とトレーニングを続けているところにルームメイトのラスティがやってきた。
「うん、ちょっと左右のバランスが気になって」
「あれだけ泳いでまだやるのかよぉー、あ、イザークもいたんだ」
 ラスティの無邪気な声にイザークは返事をしなかった。
「それより、何かあったのか?」
 アスランは抑揚のない声で訊ねる。自由時間にわざわざこんなところにやってくるなんて自分を探していたとしか思えない。
「あぁ、そうだ。何かね、アスランに通信入ってたんだよ、相手はラクスだって言ってた」
「そうか、ありがとう」
 言うとアスランは手を止めて立ち上がる。そしてトレーニングログを確認するために壁際のコンソールボックスの前に立って画面を覗いた。横のマシンにいたイザークに一瞬ちらりと視線を向けるとすぐに手元のスイッチを落とし、タオルを手にしてラスティと並んでトレーニングルームを後にする。
 二人が出て行くとイザークはずっと続けていた腕の動きを止めた。一気に疲労が腕にくる。アスランがいるから意地になって過負荷で続けていたのだ。

 気に食わない。
 気に食わなかった。

 アスラン・ザラに婚約者がいるというのはプラント中が知る事実だ。
 プラントの希望の星。対の遺伝子を持つ彼らは結ばれる運命なのだという。
 
 ならば何故、こんなところにいるのか、とイザークは思う。
 穏やかに微笑む歌姫とともに温室の中にいればいいものを。彼自身にプラントを担う意識などまるで感じられない。それどころか父親が国防委員長であることすらまるで他人事のように普段の彼はおとなしい。もし自分が同じ立場であるならばアカデミーの同期生たちの手本になるよう自ら行動して団結を促し、国威発揚の力となるだろうに、そんなことにはまるで興味がないかのようだ。
 そんな彼は当然のように主席を取っているから周囲の人間にはそれと気づかれることはないのだろうけれど、皮肉なことにいつも彼に敵わずにいるイザークにはそれがよくわかった。
 アスラン・ザラはプラントの希望の星なんて呼ばれてはいるが本人にその気なんて全然ないのだ。メディアで騒がれているアスラン像なんて作られた理想でしかない。そしてきっとアカデミーでみんなに思われているアスラン・ザラの姿だってニセモノなのかもしれない。この世界はきっとどこにも本物なんてないのだから。
 けれど、アスラン・ザラは生まれたときからアスラン・ザラなのであって、それはイザークも同じだから。生まれたときからイザーク・ジュールはイザーク・ジュールなのだ。そしてこれからさきもずっとイザークはイザークでしかありえない。ニセモノのイザークでしか。

「クソッたれが」
 イザークが一人で毒づいてガンッと蹴りつけたマシンの柱が地味にへこむ。もうトレーニングルームには誰もいなかった。人の目がないならば感情を抑えている必要はない。そしてそれがイザークの緊張を解く。
 ふっと気を抜いて鏡張りの壁面に自らの額を押し付けるようにもたれかかった。サラサラと零れ落ちるように銀色の髪が揺れて映る。
「負けない、あんな奴に負けるものか」
 握り締めた拳が真っ白になるのも構わなかった。
 たとえアスラン・ザラの評判が作られたニセモノだとしても敵わないのは事実だった。
 アスラン・ザラが嫌いなのも彼になかなか勝てないのも今のイザークにとっては苛立ちの原因でしかない。だからイザークは体を動かす。汗を流して苛立ちもストレスも不条理な自分の身の上さえすべて吐き出してしまえとばかりに。








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