自己修復ガラスに覆われた空からは雨が今にも降りだしそうだった。

 真っ黒なコンクリートは靴下はおろか靴さえない素足にはとても冷たくて、できる限り床に足を着かないようにいつも小さく丸くなっていた。
 何とか雨をしのげる程度の屋根の下、サイズの合っていない汚れきった洋服をかきあわせるようにして少しでも寒くないように身を縮めるけれど、そんなのは冬の風の前にはあまりに無意味で。三日前に慈善教会でもらった配給のパンは育ち盛りの自分には少なすぎて、我慢しながら残した分も今朝食べ終えてしまってもう食べるものは何もなかった。
「…おなかすいた…」
 雲が低く垂れ込めた空を見上げて小さな声でつぶやいても答えてくれる存在はいない。自分のこの気持ちがどういうものなのかよくわからないけれど、絶対に泣くものか、とだけは強く思っていた。泣きそうになるのをぐっと堪えてもう一度見上げた空からは意地悪く雨が降り始めてくる。
「寒い…」
 ガタガタと震えながらつぶやいた唇は肌の色と同じく色を失っていた…。
 
 Truth
「夢か…」

 薄日が差し込む寝室のベッドの上で、イザークは小さくつぶやくとゆっくりと起き上がった。銀色の髪は絹糸のようにサラサラと揺れ、切りそろえられた肩にやわらかく触れる。
 今でもときどき夢に見る――幼いころの記憶はどうやっても拭い去ることはできないらしい。ため息をついて両手で顔を覆うその身にまとっている寝巻きも寝ているベッドも最高級の品質のものだというのに、いつまでたってもあのボロボロの布切れと裸足の冷たさを忘れることはできなかった。 
 気を取り直して、ベッドから起き上がって大きな窓にかかるカーテンを開ける。人工の太陽が決められたとおりの熱と光をそこに暮らす人たちに平等に送り届けている。どんな立場の人間でも、太陽の光と呼吸する空気だけは等しく享受できるのだ、とイザークが知ったのはこの家に来てからすぐのことだった。それからずっと、窓から差し込む光を感じる度に思い出す。自分はどうやってこの家にやってきたのかということと同じく、生涯忘れられないことなのだろうと思いながら。
 
「あらイザーク、おはよう。早いわね」
 着替えを済ませてダイニングに降りると、この家の主の妻である人がにこやかに声をかけてきた。藍色の髪と翡翠の瞳が穏やかな表情をなおさら優しい印象にする。
「おはようございます…、あ、奥様、そんなことは私がします…っ」
 沸かしたお湯をティーポットに注いで紅茶を淹れようとしているその人にイザークは慌てて近寄った。外見の割りにその手指が荒れているのは、彼女の職業が農学研究者だからだ。
「いいのよ、これは私の趣味なんだから」
 にっこりと笑ってイザークを制しながら、その人は手慣れた様子で琥珀色の液体を陶磁器のカップにゆっくりと注いだ。
「それにしても遅いわね…、あの子もあなたくらい朝が得意ならよかったのに」
 そう息子のことを言いながらも、怒っているわけでもない。それを理解しているイザークは「そうですね」とうなずいてみせた。
 いつもと変わらない穏やかな朝の一コマ。もうじきその息子も眠たそうな顔をしながら降りてくるだろう。イザークは朝食の支度を手伝いながらそんなことを思っていた。そこへリビングのドアが開いて長身の男性が現れる。
「コーヒーを淹れてくれ」
 挨拶もなくそう告げた人物にイザークは慌てて頭を下げる。
「おはようございます」
「イザーク、この間の試験は2位だったそうだな」
 席について忙しそうに手元のモニターでニュースをチェックしながら、議員服を纏ったその人はイザークを見ないで言う。
「はい」
 姿勢を正して答えるイザークにパトリック・ザラはうなずいて見せた。
「他人とはいえ、この家の一員である以上ザラの家の名を汚すことは許されん。それはわかっているな」
「心得ています」
 表情を変えないイザークは、気づかれないように体の脇に置いた手をぎゅっと握る。その答えに満足するとパトリックは妻が淹れたコーヒーを口にした。
「アスランはどうした」
 妻に向かって問うその口調は明らかに苛立ちが含まれている。
「昨日は遅くまで起きていたようですから、もうすぐ降りてきますわ」
 レノアの答えにパトリックは苛立ちを隠さずに立ち上がった。
「アイツはザラ家の跡取りとしての自覚が足りな過ぎる、もう子供じゃないというのに遊んでばかりで」
 言うとプラントの国防委員長は、テーブルを後にする。
「もうお出かけ?」
 妻の問いかけに主人は頷く。
「急な会議が入った。アスランにはきちんと言っておけ」
 そういい残してダイニングを立ち去ろうとしたところへ、そのドアが外から開かれた。母親と同じ髪の色をした少年がこざっぱりとしたシャツ姿で立っている。父の存在に驚いたような顔を隠しもせず、アスランは一瞬言葉に詰まる。
「父上…おはようございます」
 父に対する息子の挨拶にしてはあまりにもぎこちないものだった。それに父は厳しい顔で答える。
「ずいぶんゆっくりだな。朝くらいしか息子と話をする時間がないというのに、お前にはそういう気もないようだ」
 父親の言葉にアスランは返す言葉もなかった。
「来週には学内試験があるそうだが、私に恥をかかせるな」
 それだけ言うとパトリックは息子を残し出かけていった。レノアは見送りに玄関について行く。残されたのはイザークとアスランの二人だ。
「おはようイザーク」
「あぁ、おはよう」
 この家の跡取りである少年に答えながらイザークは手早く彼の分の紅茶も用意する。
「昨日は遅かったようだな」
 遅くまで部屋から明かりが漏れていたのをイザークは見ていた。
「あぁ、ちょっとね」
 眠そうな顔で差し出された紅茶を飲みながら、アスランは肩を竦めてみせる。
「イザークこそ、教授から学会のアシスタントを頼まれたんだって?」
「教授には世話になっているし、そういう場で名前を使われることはザラ家の一員として俺にとってはプラスになる」
 淡々と話すイザークにアスランは目線をあげて彼のブルーの瞳を見つめた。
「イザークは自分の好きなことをやればいいんだよ。あの父に利用されるのは俺だけで十分なんだから」
 パトリック・ザラは自分の息子を跡取りという駒としてしか見ていなかった。彼は優秀であることを当然に求め、アスランを叱責することはあっても褒めたことはない。だが幸か不幸かアスランにはそれだけの能力があるために、親子の関係はぎこちないながらもある側面では安定していた。
「そんなわけにはいかない。俺は育ててもらっている恩があるんだからな」
 自分を戒めるようにイザークは言う。それにアスランは一瞬だけ悲しそうな顔をしてその横顔を見ていた。そこへ見送りからレノアが戻ってくる。
「さぁ、朝食にしましょう」
 明るい声にその場の空気が和んだ。ゆっくりと3人で食卓を囲む。
 ベーコンとキャベツのスープに焼きたてのクロワッサン。ジャムはレノアのお手製のマーマレード。卵焼きはアスランが半熟でイザークは完熟。白いテーブルクロスの上には庭から切ってきたばかりのバラが挿してある。
 イザークの話すたわいない会話にレノアが楽しそうに笑い、アスランが慌てて訂正する。まるで母親と二人の息子という光景はもう10年も続いていた。
 あまりに幸せな光景にイザークは錯覚をしそうになる自分を感じて、そのたびに強く心を戒めてきた。

 自分は家族ではない、拾われた子供なのだ、と。







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