その噂は今朝誰かが言い出したらしい。
 昼食のために食堂に来たミハエルに赤服の先輩であるジェイル・モラードが隣に座るなり聞いてきた。
「お前、また異動になるんだって?」
 言われたミハエルは口にしていたスープを吹き出しそうになり、慌ててペーパーナフキンで押さえながら聞き返す。
「知りませんよ、何ですかそれは!!」
「誰かが言ってたぜ。ディアッカ副長が来週戻るからそうしたらお前は用済みで別の隊に飛ばされるって」
 噂の内容にミハエルは困惑すると同時に怒りを感じた。本当だとしたら許せない。せっかくジュール隊に配属になったのにいらなくなったら他の隊に回されるなんて冗談でも許せない話だ。しかもそれがあの副官が戻ってくるせいだというのだからなおさらだった。

「どういうことですか?」
 隊長に会うなりミハエルは噂を確かめた。
「くだらん噂だ、気にするな」
 イザークは短く言うが、否定しないことにミハエルは気づく。
「否定してはもらえないんですか、隊長」
 実際、イザークとしてはなんともいえない話だった。ディアッカを引き戻すことには熱心だったが、その後のミハエルの処遇については何も考えてはいなかった。ジュール隊は人手不足というわけではなかったから、他の隊に必要というのであればいい意味でまだ馴染んでいないミハエルを転属させるのは仕方がないと思っていたが、いずれにしろ現状ではどうなるのかはわからないのだ。
「人事については何とも言えん・・・」
 正直なイザークの言葉にミハエルはショックと同時に怒りを感じた。エルスマン副官の異動を抗議するには熱心なのに自分のことについては上からの指示待ちだというのか。いくらなんでも同じ隊員だというのに扱いが酷すぎはしないか。そう思った瞬間に、ミハエルはあの現場を思い出した。隊長と副官がキスをしていた現場を、だ。
「それは、エルスマン先輩に比べたら自分はどうでもいいということですか?」
 低く押さえ込むような声でミハエルは言った。
「そんなことはない。ただ、上からしてみれば動かしやすい位置にお前がいるのは確かだという話だ」
 冷静に言うイザークの横顔にあのときの穏やかな笑顔が重なって見えてミハエルはぐっと拳を握る。自分にはあの顔は見せない隊長。それはどうでもいい者と言われているのも同じに感じられてミハエルは悔しかった。これまでいつでもエリートとして優遇されてきた自分がこんな扱いを受けるなんて。
「建前はどうでもいいんです。本当のところ、ジュール隊長にとってエルスマン先輩は特別だからあれこれ手を尽くして引き戻すんでしょう? なにせ廊下でキスするような関係ですからね。それに比べたら確かに自分はどうでもいいんでしょうが随分な扱いの差ですね」
 予期しない発言、だった。
 さらりと告げられた内容にイザークは顔色を変えた。幸いというべきか今はこの部屋にミハエルとイザークの二人きりで他の人間はいなかった。
「何を言う。くだらないことを言う暇があれば仕事をしろ」
 慌てて取り繕うがその顔色が元に戻りきらないうちにミハエルはさらに続ける。
「僕は見たんですよ、廊下でキスされてるお二人をね、それでも違うっていうんですか?」
 ミハエルの言葉にイザークは黙り込む。心当たりは先週ディアッカが午後休だと言って部屋にやってきたときだ。誰もいないと思っていたのだがまさか見られていたとは。臍を噛む思いのイザークだったが、そう簡単にディアッカとの仲を認めるわけにはいかなかった。隊長として今まで築いてきた部下の信頼が壊れかねない。第一、ディアッカと恋仲だなんて隊員に知られたら、示しがつかないどころの話ではなかった。
「お前が何を見て勘違いしてるのかは知らないが、あいつは幼馴染の元同僚で、お前の前任者、ジュール隊の副官だ」
 きっぱりと言い放つイザークにミハエルは唇の端をあげて笑った。
「そこまでいうのなら、エルスマン先輩としていたのと同じようなこと、僕ともできるっていうことですよね?」
 一歩ずつ近づきながら確かめるように薄灰色の目で隊長を覗き込む。イザークは一瞬返答に窮するがここで否定してしまっては意味がない。
「なぜそんな必要があるんだ?」
 努めて隊長としての威厳を保ちながらイザークはミハエルとの距離を保ちながら答えた。
「確認ですよ。ジュール隊の隊長が公私の区別なく平等で隊員に好かれているっていうのが本当かどうか、のね」
 その根底にあるのは自分がジュール隊を追い払われるかもしれないという私怨に近いものだったが、もっともらしく言葉を並べてミハエルはイザークを追い詰める。
「だとしても、何もおまえが言うようなことをする必要はないだろうが」
「何故出来ないんです? あのときしてたことが特別でないのなら別に誰としたって構わないですよね?」
 ニヤリ、と笑うと一瞬の隙を突いてミハエルはイザークの足を払い、バランスを崩した細い腕を引いて自分に近づけた。目の前には白皙の頬に冷たいブルーの瞳がある。
「・・・」
 らしくもなく困ったようなイザークの表情にミハエルはにわかに楽しくなる。トクベツな笑顔も魅力的だが、こんな顔をされるなんて思ってもいなかったから思わぬ収穫に頬が緩みそうだった。だがミハエルはそれだけで満足できるわけがなかった。
「もう一度聞きますけど、エルスマン先輩はトクベツじゃないんですよね?」
 間近で尋ねられたイザークはミハエルの視線から逃れながら「特別じゃない」と低く答える。
「ならば、僕にも先輩と同じことをしてくれますよね」
 そう言うなりミハエルはイザークの唇に自分のそれを押し当てた。見た目の印象そのままのひんやりとした感触が柔らかな唇越しに伝わる。目を閉じて上下の歯をかみしめているイザークの唇の上をミハエルは柔らかい舌でそっと舐めて味わった。それに反応してびくり、とイザークの体が小さく揺れる。
 隊長のそんな様子に満足したミハエルはそっとその唇を離すと満足そうにイザークを解放した。
「確かに、特別じゃないみたいですね、一応は・・・」
 意味深に笑うとミハエルは自分を睨みつける隊長に勝ち誇ったように笑う。
「まぁ、いいです。エルスマン先輩が戻ったら異動の件についてはきちんと説明していただきます。でないと自分も納得できませんから」
 言うとミハエルはイザークに背中を向けてその部屋を出て行った。
 部屋に残されたイザークは舌打ちをすると小さくため息をついた。







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