空が墜ちるとき |
見上げた空は網膜に焼きつくように鮮やかな青、だった。 婚約者との食事の席で交わした言葉はどれも空回りして一ミリグラムの重さも手のひらには残らなかった。ただ、テレビ画面の向こうに見慣れた笑顔と同じ微笑が直ぐ近くにあるというだけで、それ以外の何も俺には感じられなくて。 長くはない昼休みにわざわざこんなところにやってくる生徒はいるはずもなく、だからこそ人目から逃れるにはちょうどよいと知ったのはいつのことだったろうか。 そういうわけでアカデミーの裏庭は密かな息抜きの場所となっていた。たいてい芝生に寝そべって何も考えずに空を見る。 今日も、昨日の出来事を振り返って沈みがちになる気持ちを晴らそうとここへやってきた。昨日は定期的に組まれている婚約者との食事の約束がある日だった。 彼女――ラクス・クライン――は自分の婚約者で、それはプラント中に知れ渡っていて、自分の立場は誰もがうらやむものだった。だけど実際は本人の意思なんて微塵もそこには入る余地のない政略的な関係だなんて誰が知るのだろうか。 いや、一人だけをそれを知って理解している人がいる。思わず漏らした言葉にその人は驚いた顔をして、それから一瞬だけ同情して、そして笑い飛ばした。 悩んでいるだけ無駄なことだ、と。 「またこんなところにいるのか」 声がしたけれどアスランは目を開けることをしなかった。その声で相手が誰かなんて―――というかそもそもここにアスランが来ることを知っているのなんて一人しかいない。 「別にいいだろ。ここは立ち入り禁止じゃない」 そうしていつもと同じように後を追ってきたイザークはアスランを見下ろす。 「しけたツラしやがって」 カツッと靴のつま先でアスランの頭のギリギリの土を蹴りつける。 それでも無言を決め込むアスランに仕方なさそうにイザークは言った。 「また何かやらかしたのか」 昨日がラクスとの会食がセッティングされた日だということはイザークも知ってることだった。前回のときは不義理を謝ろうと慌ててテーブルの上のカップを引っ掛けて倒したのだとか言っていた。 「別に何もなかったよ」 そう。 何もなかったのだ。あまりにも何もなくて、なさすぎてぽっかりと空いた傷口が今さらに痛み出したみたいにアスランを苛んでいる。そしてそういう時は裏庭にやってくるのだが、最近はそんなアスランをイザークが気にかけて追いかけてくれると分っているからそれを期待しているのかもしれない、と思う。 「なんだ。じゃあなんでそんなツラしてるんだ、ラクス・クラインとのデートだっていうのに」 もともとアスランは華のあるタイプじゃない。それが落ち込んでいるとなればなおさら辛気臭い奴になっているから、ポーカーフェイスといわれているわりには分りやすかった。 「俺にはイザークのほうがずっといいよ」 言い争いみたいな討論だってチェスのボードを挟んだ勝負だって端から見たら気の休まらないやりとりなのかもしれないけれど、それはとても楽しい時間なのだ。 「比較対象にするのは間違ってるだろうが」 自分は男で相手は歌姫なのだ。そういう視線にアスランは小さく苦笑した。 「そうだね」 自分はイザークのことが好きでイザークもそうなのだと確信が持てる。そこには義務もなく偽りもなかった。 「イザークと比較できるものなんてあるわけがない」 臆面なく告げる学年主席に呆れた顔を隠そうともせず次席の少年は地面に膝をついた。 「寝言は寝てるときだけにしろ」 片膝をついた姿勢でアスランの額を強く弾く。痛みに顔をしかめたアスランはすぐに笑顔になって言い返した。 「君といればいつだって夢の中みたいなものさ」 しがらみから解放されて二人だけでいる時間は何も気にしないでいいという意味では、常日頃から人目に晒されてきたアスランにとっては夢みたいな時だった。 手を伸ばしたアスランがイザークの腕を強く引く。それに抗うわけでもなく前かがみになりながらイザークはアスランを覗き込んだ。サラサラと銀色の髪が揺れて落ちる。 「あぁ空だ」 「空・・・?」 目に焼きつくような鮮やかな青。それに通じる激しさと透明感を持つ瞳。 それがゆっくりと降りて近づいてくる。 「空が墜ちて来るみたいだ」 ぽつりと呟いた言葉にイザークはふん、と鼻で笑う。 「バカなことばかり言いやがって」 今度は額を弾くことはせず鼻を思い切りつまみあげる。そして自然と開いた口をイザークはキスで塞いだ。 「ん・・・っ」 あまりに長いキスにさすがのアスランも根を上げて、自分に覆いかぶさっている体を突き飛ばす代わりに長い腕を伸ばしてその体を絡め取ると力いっぱいに引き倒した。 「・・・っ・・・はぁ・・・」 呼吸困難から解放されて息を弾ませる胸の上に留め置かれる格好でイザークは抱きしめられていた。 「根性なしが」 すぐ、本当にすぐ目の前でイザークが笑う。触れ合っていた唇が艶を帯びて濡れているのもわかるくらいに。 「不意打ちしておいてよく言うよ」 真っ向勝負なら、アスランの心肺機能はイザークに負けない。水中で呼吸を止める勝負をしたときだってアスランの方が10秒も長かったのだ。 「泣き言並べてる腰抜けにはそれくらいがちょうどいい」 そう言いながら、イザークはアスランの頬に触れる。何も言わないアスランが自分への申し訳なさと抗えない『アスラン・ザラ』としての立場に悩んでいることなんて明白だった。 「プロパガンダに利用されるのは仕方ないがな。貴様がそれに本気になりさえしなければ何の問題もない、そうだろう?」 「本気って・・・」 「だから!ラクス・クラインを本気で好きになりさえしなければ俺は別にだな・・・っ」 そこまで言ってしまって慌てたように顔を背けたイザークの耳は真っ赤に染まっていた。 「イザーク・・・」 嬉しくなってアスランはその体をぎゅっと抱きしめ直す。 「やめろっ、苦しいっ」 バタバタと足を揺らしいきなり騒ぎ出すイザークのそれは照れ隠し以外の何物でもない。クスクスと笑いながらアスランは言った。 「まさしく青天の霹靂ってやつだね」 イザークからそんなことを言われるなんて思わなかった、そう嘯く口調に苦々しく思いながらイザークもまたアスランに告げる。 「あれくらいじゃまだまだだろ、霹靂っていうならこれくらいの衝撃が必要なんじゃないのか」 そうして耳元で囁かれた言葉にアスランは一瞬目を見開き、そして堪らないと言った顔で笑い出した。 「やっぱりイザークって最高だ、俺はそういう君が好きだよ」 そんなアスランの様子にイザークはニヤリと笑い、藍色の癖毛を指先で弄ぶ。 「なら、キスくらいしたらどうなんだ?」 そういえば、さっきのキスはイザークからだったと思い出したアスランは抱きしめていた両手を頬に添えて微笑んだ。 「俺を本気にさせられるのは君だけだ、イザーク」 遊びでも勝負でも恋でも。自分が本気になっても許される、本気になることを教えてくれた存在は、今では何よりも大切だった。 触れる唇に空の青が柔らかく笑う。 「本気なら投げ出すなよ」 「もちろんそのつもりさ。君は?」 「聞くな」 ふふふ、と笑いながら重なる影を隠すように、青い空にはいつのまにか高く白い雲が生まれていた。 fin.
2007.4.15(イベント配布ペーパー) -1- |