君と空の下で



 待ち合わせの場所に現われた人の気配にイザークは寄りかかっていた木の幹から体を起こした。
 空を走る風が、この季節に芽吹き始めている青い若葉をサワサワと揺らす。
「遅いぞ、3分の遅刻だ」
 短く発せられた言葉にその人物はなんとも言えない顔で言った。
「まだ約束の2分前だけど?」
 約束の時間は午後1時。時刻はまだ12時58分だ。
「5分前行動は基本だろうが!」
 相変わらずの気の短さと律儀さにその少年、アスラン・ザラは可笑しそうに笑った。
「ここは戦場でもアカデミーでもないよ、イザーク」



「もう、何年になるかな」
 ぽつりと呟いた言葉にイザークは何も言わなかった。だからアスランはそのまま続ける。
「すっかり古い方になっちゃったんだな」
 手入れされているとはいえ数多く並んだ墓標の中で今ではそれは決して新しいものとはいえない。この霊園の敷地は拡張される一方で、それはそのまま地球とプラントとの戦争の犠牲者の数とイコールだった。
「ミゲルならともかく、ニコルの奴はどんなに後輩が来ようといつまでも新人みたいな顔してそうだがな」
 墓碑の前に供えた花束が答えるように風に揺れた。
「確かにそうだな」
 しっかり者で心優しい少年は、次々とやってくる後輩に心を痛めながらも受け入れているに違いない。
 黙って見下ろしているアスランにイザークは声をかけなかった。自分は一時間も前にやってきて散々あれこれと報告をしていたから、今はアスランに場所を譲っていたのだ。時間があればやってくる自分とは違って今はもうプラントの住人ではないアスランにとってここへやってくる機会は貴重なものに違いなかった。

「軍服で来るのかと思ったぞ」
 漸く顔を上げたアスランに腕を組んだイザークが声をかけた。アスランはダークネイビーのスーツを着ている。そういうイザークも当然私服だった。
「まさか。いくらなんでもこんなところまで軍服じゃ来ないさ。ここで軍服を許されるのは君たちザフトの人間だけだ」
 プラントに戻ったラクス・クラインの護衛兼見送りとしてやってきたアスランはオーブの人間としてプラントの地を踏んだ。それを迎えたイザークは白いザフトの軍服で、アスランはオーブの軍服を身に着け、互いに違う組織の人間として、そして公的な立場のまま再会を果たすことになった。イザークのセリフはそれを皮肉ったものだ。
 オーブの軍人ということは即ちザフトの敵に他ならない。アスラン自身は戦争中の身分はザフトに所属していたのだし、オーブ側に付いた後の戦闘でも敵の機体を破壊するのは腕や足だけでパイロットの命を奪うような戦い方はしていないのだが、それは事情を知らない人間に通じる話じゃなかった。
 それに。
「ここに来るときは、ただのアスラン・ザラでいたいから」
 身分とか立場とか。そんなこととは関係なく、一人の人間として、友人として彼らには会いたいと思う。
「なら、なんで俺を呼び出した」
 滞在中に会えないかという連絡を事前に受けたイザークは空いている日時を教えておいたのだが、アスランから待ち合わせの時間と場所を指定されたのは昨日のことだった。
「一人よりも二人の方がいいだろう?それに付き合って欲しいところがあるんだ」
 プラントに戻ったのならニコルたちの墓にやってくるのだろうと思っていたがそのほかに行く場所があるとは思わなかった。
「付き合って欲しい場所? ご両親の墓か?」
 アスランの家族、母親と父親の墓は隣の区画にあるはずだった。
「いや、それは昨日ラクスたちと済ませた」
 それにイザークは意外そうに目を見開いた。
「わざわざ出直したのか」
 長くはないプラントでの滞在期間に墓参りを二度するなどというのは時間の無駄とも言える。
「だってゆっくり来たかったし」
 無邪気に言うアスランにイザークは何と言っていいのかわからなかった。まるで自分とゆっくり過ごしたいと言われているような気がしたのだ。そのために出直したのだと。
「そうだ、ディアッカは昇進したんだな」
 出迎えの席でアカデミー時代の仲間はまた違う色の軍服を着ていた。
「あぁ、人手不足だからな。あんなのでも場数は踏んでるから役に立つんだろう」
 相変わらずの言い方にアスランは笑う。いつでも変わらない二人の関係は羨ましいほどだ。自分は迷ってばかりいるけれど、二人はまっすぐにあの時と代わらない場所にい続けている。
「やっぱりあの一撃は大きかったんだな」
 ジブリールの放った一撃はいくつものプラントを破壊した。それによるプラント側の人的損失は予想以上のものがあった。
「当たり前だ。国民の17%もいきなり失ってみろ、何も機能しなくなるさ。ここまで短期間で立て直せたのはやはり、コーディネーターの能力のおかげだろうな」
 復興にあたっては地球の支援があったのも確かだが、それは復興作業に占める割合からいえばわずかなものだった。戦争慣れしたとは言いたくないが、第一次の戦争で教訓を得てプラントは迅速に対応してきたし、それができたのはナチュラルからは脅威と恐れられる能力の高さゆえだ。
「そうか・・・。新しいディセンベルには行けそうもないのが残念だな」
 ポツリと漏れた言葉にイザークは怪訝な顔をする。ディセンベルが破壊され再建されたプラントなのは確かだがそこに行きたいという理由がわからなかったのだ。その顔を見てアスランが説明した。
「ディセンベルは俺の育ったプラントだから」
 ハッとして弾かれるような顔を上げたイザークに小さく笑う。
「といってもあまりいい思い出はないんだけどね」
 詳しい話は知らないが、アスランの母親はあちこちに移住しながら仕事をしていたらしく、親子三人で長く暮らした時間というのはほとんどないのだという。
「それでも一応家はあったから」
 巨大な砂時計が切り崩されて、塵のように無重力の空間に投げ出されていった数多くの人々や建物。あの中にアスランの暮らした家があったのだと今さらに知り、砕け散る自分の祖国を目の当たりにして声をあげたあのとき以上にイザークは胸が痛んだ。
「アスラン・・・」
「でもそれは俺だけじゃないから」
 同情は不要だと顔に出してアスランは視線でイザークを制した。

 血のユニウスセブンの悲劇で母親を失い、そして暮らした家も失った。
 それはどんなにか辛いことなのだろうかとイザークは思う。自分は母親や暮らした家も失くしたわけではないが、それでも戦争というものへの怒りは、次々と命が奪われていくことの不条理への憤りは抑えきれないというのに。それが身内に起こったならば、自分の母が殺されたとしたら、アスランと同じようにいられたのだろうか。その胸に抱える孤独を思い、風に揺れる藍色の髪に隠された強さを改めて感じる。
 
「さぁ行こうか」
 黙ったままでいるイザークにアスランは切り出した。視線をあげたイザークに気分を切替えるようにして確かめる。
「付き合ってくれるんだろう?」
 行きたい場所があるのだと言っていた、その場所を知らされてはいないがイザークに断る理由はなかった。
 促されて後に続く。
 その背中がまた少しだけ自分より背が高くなった気がしてイザークはぼそりとつぶやく。
「アスランのクセに生意気な」
「え、何か言った?」
 振り返ったアスランに昔のままの口調でぶつける。
「貴様っ、いつのまに俺より背が高くなりやがった!」
 それにアスランはきょとんとすると思い切り噴き出した。そんな姿にイザークはムッとするのを隠さなかった。



「行きたい場所というのは・・・まさか・・・」
 アスランが運転するエレカが道を進むにつれてイザークの中で目的地の候補は絞られてきていたが、メイン通りを曲がったことでその答えが示されたようなものだった。
「やっとわかった?」
 楽しそうにハンドルを片手で持ちながら頬杖をついて笑う。本当はオートドライブにしてしまえば握る必要などないのだが、すっかり地球での生活で自分が操作することに慣れてしまったのだという。それに行き先を知られたくなかったアスランはナビに登録するのを避けたのだ。
 しばらく進むと懐かしい風景が広がった。
 市街地から離れた場所にあるそこは、小高い丘の上に立ち、周囲をぐるりと塀で囲まれている。とはいっても広大な敷地のおかげでそれが窮屈だと思ったことはないけれど、それでも自分たちは普通の市民ではないのだと確認するには十分に役立つものだった。
「なるほど、俺がいないと困るわけだ」
 ようやく合点がいったという顔でイザークは言う。
「そういうこと」
 満足したような声でアスランは笑い、気後れすることもなく慣れた様子でエレカをゲートへと走らせる。
 セキュリティゲートに近づくと、おもむろにイザークはIDをかざしてみせた。瞬時に認識されたそれは軍内のほとんどの施設をスルーパスできる隊長クラスのIDカードだ。
「相変わらず悪知恵だけは働くやつだな」
 悪態をついてIDカードをしまいながら隣のアスランを睨み付ける。
「そんなこと言うなよ。コネクションは有効に使えってのは処世術の常道だろう?」
 軍関係の施設に一般市民が入るには事前の申請を経て許可を得るか、関係者の同行が必要なのだ。そして後者の場合、同行する人間の立場によっては出入りできない場所もでてくる。だがイザークは白服を纏う立場であり、しかもその知名度はピカイチだから、どんな場所だって行けないところなどなかった。
「貴様ならセキュリティゲートをぶち壊すくらいいくらでもできるだろうが」
 その手の能力が自分より優れているのは不本意ながらイザークが一番知っている。手先が器用で機械操作が得意なのだ。アカデミー時代だって実はあちこちのロックを無断解除していたのだって知っているし、それをディアッカやミゲルがいいように利用して無断外出していたことも一度や二度じゃなかった。
「そりゃできないことじゃないけど、せっかく君と来る母校なんだから正々堂々と正面から入りたいだろ」
 しれっと違法行為を認めるような発言をして悪びれた様子も無い。相変わらず変なところで肝の据わってる奴だとイザークは小さく苦笑した。
 パーキングに停めたところに警備員が近づいてきた。ゲートを通過したとはいえアポなしの訪問者には違いない。仕事に勤勉そうなその人間は一応の用心をしながら敬礼をして口を開いた。
「失礼ですが、どちら様でしょうか」
 私服姿のイザークとアスランはどうみても軍のお偉方には見えないだろうが、すんなりセキュリティを通ったのだからただの士官とも違うと思っているらしい。
「第五艦隊所属ジュール隊のイザーク・ジュールだ。突然すまない、久しぶりに母校に来たくなって寄らせてもらった。校舎内の立ち入りは可能か」
 悠然とした敬礼で返して告げられた内容にその警備員は驚きに顔色を変えた。警備員と言ってもザフトに所属する人間らしくその姿はしらなくても名前だけでわかったということだろう。なにせイザークはヤキンの英雄なのだから。
「はっ、かしこまりました、警備室に連絡を入れておきます、どうぞごゆっくり」
 それに笑って得意そうににやりとアスランへと笑みを向けた。
「さすがジュール隊長」
 お世辞の見本のように全然本気じゃなく言ってアスランも笑う。
 ささいなやり取りだけれど、まるで悪さをしているような感覚が無邪気に楽しかった。


「ここへ戻ってくる日があるなんて・・・」
 感慨深そうにアスランが口にする。

 脱走と復帰と再度の逃亡。

 すべては戦争をやめさせるための道を選んだ結果だったとはいえ、アスランのしたことはアカデミーの卒業生としては一番やってはならないことだ。ましてや主席で卒業した人間がすることじゃない。
「はんっ、おめおめとよくも敷居をまたげたものだな」
 だがそういうイザークの口調は刺々しくはなかった。それどころか自身も母校に戻ってきたことを楽しんでいるようにさえ感じられる。
「君がいてくれるからね」
 一人じゃ来る気になんてならなかった、言外に告げてアスランは微笑む。それに居心地が悪くなってイザークは早足で歩き出した。

「変わらないなぁ」
 数年ぶりに足を踏み入れたアカデミーの校舎はあのころと変わらない空気に包まれている。今日は週末だから授業はないのだろう。人影もまばらで時折教室から生徒と思しき声が聞こえたり、遠く機械整備の実習室からは工具のモーター音が聞こえてくる。
「当たり前だ、そう簡単に変わってたまるか」
 アカデミーは軍人としての基礎を叩き込む場所だ。そこがコロコロと変わっていたら新人を受け入れる側の人間としては冗談じゃない話だった。
「変わったのは俺だけか・・・」
 ここで時間をすごしていた頃に信じる未来は明るかった。そこには迷いも疑いもなくてただ進んでいけばそれでいいのだと思っていたから、すべてが正しくて本当に必要なことは何なのかなんて考える余地もなかった。だけどこの囲まれた空間から外へとでたら、本当のことなんて実は知らないことばかりだと告げられて迷い続けるだけだった。そして羅針盤を失った船のように自分の行くべき道を見つけられずにひたすらに漂って、その果てに自軍を裏切ることをした。
 アスランはこの場所で教えられた知識と技術でザフトの艦を撃ち落したのだ。

「貴様だけじゃない・・・」
 不意に聞こえた声にアスランは聞き返す。
「イザーク?」
「人は誰だって変わるものだ、じゃなけりゃ成長する意味が無いだろうが。いちいち悲観的になりやがって!だから貴様はハゲるんだ」
 苛立ちも露に告げられた言葉に彼なりの励ましを感じ取って、声に出そうになった言葉を飲み込んだ。
「・・・ひどいな、ハゲるとか言わないでくれよ」
 泣きそうになった声は微量の刹那さをこめた言葉に変わった。
 それはさんざんアカデミー時代にからかわれたフレーズだった。アスランの広くて大きな額を見て周りの人間は「禿げるぞ、あれは間違いない」と笑って言い続けたのだ。
「じゃあデコが広がるって言えばいいか」
 ふふん、と笑いを浮かべて腕を組む。
「イザークっ!」
 抗議に振り上げた腕をひらりとかわしたイザークはそのまま廊下を駆け出した。
「あ、待てよ!」
 それはまるでタイムスリップしたかのような光景だった。
 あの頃と変わらない校舎の廊下を何も考えずに走り出す。
 本当は廊下を走ることは禁止されていたけれど、そんな規則を守る奴なんて誰もいなくていつもにぎやかに少年少女たちは駆け回っていた。イザークはアスランを追いかけて、アスランはラスティに追いかけられて。イザークを追いかけるのはディアッカとミゲルで、それにあきれながらいつもついてくるのはニコルだった。
「ゴールは西校舎の屋上だ」
 言ってイザークは本気を出して口の端をあげて笑った。。
 ここは南に位置する建物で西校舎からは一番遠い。どうやら本気で勝負するつもりらしい。
 もし、将来部下になる人間に見られでもしたら上官としての威厳なんて吹き飛んでしまうだろうに、そんなのすっかり頭に無いようだ。スタートを示す左の手を振りかざすと同時にダッシュして。
「隊長のくせによくやるよ」
 あきれて笑いながらアスランも昔のように勢いよく走り出した。


 長い廊下もわざとエレベーターの無い連絡通路も、にぎやかな食堂も勝負ばかりしていたラウンジも。
 あの頃とちっとも変わっていなかった。まるでそのソファにミゲルが寝転んでいるんじゃないだろうかとか、自販機の前にラスティがいるんじゃないだろうかと錯覚さえしてしまうくらいに。もういない人間を思い出しながら自然と零れる笑みは不思議と悲しさに染まってはいなかった。
 走りながら一気に時間が蘇るような気がしてアスランの足取りは軽くなる。
 
 ここで過ごした時間は確実に自分の中に存在している。
 
 本当はプラントで過ごした時間のすべてを捨ててしまうつもりだった。
 アカデミーで過ごした時間はもちろん、プラントに生まれた自分の過去でさえ、これから先の未来には必要の無いものだと思ったから。そのけじめをつけるために今回のプラント行きを引き受けたのだ。

 迷うのは根を張る場所がないからだ、と人に言われた。
 思えば確かにそうかもしれない。
 自分はいつもどこかで居場所を求めていた気がする。アスラン・ザラという人間はプラントに生きているのに、まるで故郷を持たない渡り鳥のように落ち着けると思った場所でも長くいることはできなくて彷徨い続けていたように思う。
 もし、コペルニクスにずっといることができたら違っていたのかもしれないと思う。あの幼い日々は唯一自分が自分として家と家族と友人を持てた時間だから。懐かしい故郷といって思い出すのは家のあったディセンベルじゃなくていつもコペルニクスだった。でもそれすらプラントじゃないのだからという意識が邪魔して自分の故郷として心のよりどころにすることはできずに、だけれど、その代わりになる時間や場所も見つけられなくて。
 だからアカデミーという場所は新鮮だった。
 ある意味ではようやく自分のいるべき場所を見つけたと思った。ここにいれば自分はザフトのアスラン・ザラとして確かな居場所を得ることができる、と。仲間と過ごした時間も、競い合った日々もかけがえのない物だと思えた。自分が選んだ道は間違いじゃなかったと、このまま進んでいけばいいのだと信じていられたから。
 あのとき、ラクスに指摘されるまでは、何の疑問も持たなかった。だが一度亀裂の入った足元はあっけなく崩壊し、またジプシーのような自分に戻るしかなかった。
 そして。
 軍を裏切り敵対し、名前を偽って無為に過ごすことに耐え切れずにそしてまた軍に戻って。
 その迷い続ける原因は根を張る場所を持たないからだと言われてその意味を理解して、そしてこの地に戻ってきたのだ。
 プラントの人間としてじゃなく、オーブの人間として。 
 迷いを捨てるために、根を張る場所をひとつに定めるために、それまでの時間もすべて捨てて一から出直すために。

 だけど。
 それは違うのかもしれない。

 先を行くイザークの背中をみながらふとそんな風に思った。

 イザークは同じ場所で学んだ仲間で、共に戦った同僚で、そして対立する立場になったときでも敵とは思えなかった。
 思うにそれはきっと彼がいつも同じ方向を向いているからだろう。まっすぐに信じた道を。たとえそれが信じていたものと違うと知っても、逃げ出すことはしないで立場を変えずに道を進む。アスランにはできないことをイザークは今までやってきたのだ。アスランにないものをもち続けていたから。
 
 シュンッ。

 屋上へと続くドアが開いてイザークが駆け出していく。それに続いて弾むように走りながらゴールのフェンスへ腕を伸ばす。
「勝った!」
 すんでのところで先に手が触れたイザークが誇らしげに宣言する。
「・・・っ!あと少しだったのに」
 肩で息をしながら言うと得意になってイザークは笑う。
「残念だったな、あいにくと卒業してからまで負けの記録を更新するつもりはないからな」
 イザークとの勝負は結局アスランが勝ち越したままだった。アカデミーでの記録は57勝31敗、クルーゼ隊に配属になってからの勝負は12勝8敗で。
「ならこれで君の1勝か」
「1勝?」 
 怪訝そうに顔を向けるZAFTの隊長はさらりと揺れる髪を風になびかせた。
「そう。ザフトとオーブの所属になってからの勝負の記録」
 クルーゼ隊で勝負を始めるときに、それまでの記録はリセットだとイザークは主張した。だから軍人になってからの勝負ということではじめたけれど結局イザークは負け越しのままだ。
「ならそういうことにしておいてやる」
 偉そうに言って笑うとそのままフェンスに寄りかかる。眼下の校庭には人影がまばらにあって、懐かしい制服姿が目に入った。



「正式にオーブの軍人になったよ」
 ぽつりとアスランが言った。フェンスに並んで景色を眺めながらイザークの顔は見ないままに。
「言われなくたってそんなことは知っている」
 ラクス・クラインの護衛がアスラン・ザラとなっていたときからその身分はオーブの軍人になっていた。階級も所属もご丁寧にプロフィールつきで。何より再会したときの姿を見ただけでそんなのはわかりきっていることだ。書類上のデータより階級章付の軍服のほうが確かな証なのだから。
「今度は偽名は使わないのか」
 からかうように笑うと苦い顔をしながら否定する。
「名前を偽ったって何の意味も無いって思い知ったからね」
 アスハの家に身を置いたときは亡命の扱いだった。だが今度は違う。アスランはアスラン・ザラとしてオーブに移住したのだ。
「当たり前だ。どんな名前でいようとも貴様はアスランなんだからな」
 力強く指摘する。それがイザークらしくて自然と笑ってしまう。
「本当にそうだったよ。俺は俺でしかなくて、アレックスなんて名乗ってもカガリの護衛をしていても身についたものは何も落とせなくて、パイロットとしてモビルスーツに乗り込んだらイザークに遭うし」
 まさかあんな戦場で再会するとは思いもしなった。あれはどんな偶然が作用したって起こりえないほどの奇跡みたいな再会だった。
「生意気なのもむかつくのも変わらなかったしな」
 モニター越しに交わした会話ももうすでに懐かしい。久しぶりの旧友との会話なのに結局何も変わらないで怒鳴りつけるだけのイザークを思い出して笑いがこみ上げる。
「ひどいよな、君は。命令してるわけじゃないのにいきなり『命令するな』なんて」
「仕方ないだろうが、あの場所では俺は隊長なんだ、見ず知らずの一般人の指示に従ってるわけにはいかないんだからな」
 そういうものの本当は単なる条件反射みたいなものだ。それは本人もアスランもわかってる。「やかましい」だとか「黙れ」だとか「うるさい」だとか。そんな言葉を言う関係はアカデミー時代でもクルーゼ隊になってもずっと続いていることだったから。

「もう逃げないんだな」
 確かめるようにイザークが訊いた。
「うん、やっと覚悟が決まったよ」
 うなずくアスランの横顔はすっきりとしていて迷いの影は見当たらない。
「イザークが教えてくれたんだ、俺に足りないのは覚悟なんだって」

 あのとき。
 アレックスとしてニコルの墓を参った時に言われた言葉。
 自分へのもどかしさと同時に、軍人として生きるための腹を据えることの意味を告げられたのだと思った。
 力を持つことはそれと同時に覚悟をすることなのだと。
 イザーク自身も迷うときはあったのだと知ると同時に、一度その道をいくと決めたら迷ってはいけないのだと知らされた。できることを精一杯やるというのは覚悟を決めて、足場を確保しなければできないのだということも。
 イザークがずっとザフトにい続けられるのはその覚悟があったからなのだと思う。そして自分がいられなかったのは覚悟がなかったからなのだ。ラクスに言われたからといって迷ってぐらついて逃げ出す必要があったのかどうか。今となってはわからないけれど、少なくともイザークのようにずっとザフトにいたのならば見えてくる道は違っていたのかもしれないとも思う。
「はっ、何をいまさら言ってる。貴様が腰抜けなのは今に始まったことじゃない」
 鼻で笑うイザークに、肩をすくめるとアスランはひょいっと飛び上がってフェンスにのぼった。僅かしか幅の無い柵の上に身軽に腰を落ち着けて、最上階の空に腰掛けるようにして。
「よくイザークに『腰抜け』って言われてたけど、ほんとだったなって思うよ」
 うるさいくらいに言われていた言葉。本当のところはイザークに比べて消極的で慎重すぎる自分に苛立って言っていたのだろうと思うけれど、意外と的を得ていたのかもしれない。
「ったく、気味が悪いな、貴様がそんなに素直だと」
 言いながら同じようにフェンスに腰をかける。屋上の床から二メートル以上もあるのに二人にかかれば公園のベンチと変わらなかった。
「根を張る場所を持てってある人に言われたんだ」
「貴様が根無し草だと?」
「そうだろう? イザークが一番同意すると思ったんだけど」
「何だって俺が」
 反論しかけた言葉はアスランの声にかき消された。
「だから過去を捨てようと思ってここにきた」
「アスラン・・・?」
 ゆらゆらと足を投げ出しながらゆっくりと告げる。
「中途半端な過去は迷いにつながるから」
「貴様・・・」
 顔をあげて見開かれる瞳を感じながらアスランはゆるく笑う。
「でも違うって気がついたよ」
 それにイザークは何も言わない。
「中途半端な過去なんてないんだって気がついた。ここで過ごした時間は中途半端なものなんかじゃなくて、全部自分の中に生きてるんだって思い知った。中途半端なのは自分の気持ちなんだって・・・」
 すっきりと笑う顔はやっぱり迷いなんてなかった。
「なら来た甲斐はあったということか」
「うん、そうだね。君のおかげだ、ありがとうイザーク」
 笑って差し出される手のひらを握り返すことはしない。それは別れの挨拶みたいなもので、イザークの記憶が拒否させたのだ。
 あの、カーペンタリアでの別れは二度と繰り返したくない。手を握った別れの相手が次に会うときには敵になっているなんて。
「もう敵になることはないよ」
 イザークの気持ちを察したアスランが説明してもフイッと顔を横に向けるだけだ。
「どうだか」
 まったく。
 意外と根に持つタイプらしいイザークに笑いを禁じえない。人のことを散々馬鹿にしているくせに変なところで子供っぽいのだと気づくのは今さらではあったけれど。

「心残りはないのか」
 確かめるイザークは顔を背けたままだった。
 それにアスランはそっと目を伏せる。
「あるよ」
 予想もしない言葉にイザークはすぐ隣にある顔をまじまじと見つめた。
「何だそれは!どこまで腰抜けな・・・」
「君のことが好きだったよ」
 はっきりと告げられた言葉にサファイアブルーの瞳が大きく見開かれる。
「貴様、何を・・・っ」
「だから俺の心残りを」
 にっこりとさわやか過ぎるくらいに笑う顔は冗談とも本気ともつかない。
「冗談じゃないっ」
「うん、冗談なんかじゃないよ」
 どこか頭のネジが抜け落ちたんじゃなかろうか。いぶかしんで睨み付ける瞳から逃げ出すわけでもなく、アスランはまっすぐにイザークを見ていた。
「ずっと君が好きだった」
 ぐらり、と身体が傾いだと思った次の瞬間、背中から落ちるイザークの身体をアスランは一瞬早く床に飛び降りて抱きとめた。
「危ないなぁ」
 無邪気に笑う顔に一瞬ほっとして、そして状況を思い出すとイザークは顔を真っ赤にして怒鳴りつける。
「ふ、ふ、ふざけるなっ!」
 あたふたとその腕から逃げ出しながら赤い顔のままアスランを睨む。
「ふざけてなんてないよ。こんなところまで来てふざけるほど暇じゃないし」
「なら、何で今頃・・・」
 その一言にアスランは小さくため息をついた。
 なんで自分はこういうときに限って鈍感じゃいられないんだろう。どうして気づいちゃうかな、わずかな言葉じりなんかに。
「ずっと言おうと思ってた。いつか戦争が終わったら君にちゃんと言おうって」
 コンクリートの床に足を投げ出してフェンスに寄りかかる。カシャンと金属の音がしてアスランの身体がイザークを見上げた。
「ずっとだと・・・?」
「うん、ずっと。・・・ずっと前から」


  ■■■


 いつ好きになったのかなんて覚えていない。
 そもそも好きだと気がついたのだっていつだったのか。

 覚えているのはイザークと勝負をするのがとても楽しかったのだということ。アカデミーでの緊張の続く毎日の中で、バカみたいに真っ直ぐに勝負を挑んでくる手ごわいライバルの存在は不思議と心地が良かった。
 勝ったり負けたり、単純な勝負ほど夢中になって負けたくないと密かに思いながら、それを表に出すのは格好悪い気がして興味がない風に装っていたけれど。

 だから配属が同じだと知ったときには嬉しかった。
 ただそれを知られるのは嫌だったから、知らん顔していたのだ。まるで幼い頃の淡い初恋の思い出をそっと胸の内にしまいこむようなつもりで、ただの同僚としてそれまでと変わらずに接していようと決めて。

 そして、自分が認識しているよりずっと大切な存在だというのはあのときに思い知らされた。


 帰艦の報告を済ませたアスランは赤を着る同僚の姿を捜し求めた。ラウンジにニコルを姿を見つけるとまっすぐに駆けつける。
「ニコル・・・イザークが怪我をしたって・・・っ」
 保護したラクスの護衛兼見送りとして別部隊に引き渡す途中、ヴェサリウスに飛び込んできた情報はアスランの思いもしないものだった。
 思い切り力を入れて掴んだ肩に鶯色の髪をした少年は顔をしかめる。
「落ち着いてください、アスラン」
 やんわりとアスランの手を外しながらその態度を諌めるように落ち着いた声で言う。それに力んでしまった自分に気がついてアスランは慌てて手を離して謝った。
「ごめん・・・、それで」
 先を促す声に乱れた軍服を正しながらニコルは口を開いた。
「顔を・・・顔面に傷を負いました。コクピットが破損してバイザーが割れたんです」
 深刻な内容にアスランは事の重大さを知った。
「顔ってそんな・・・」
 言いながらがっくりと床に膝を突く。イザークの顔はコーディネーターの中でも飛び切り美しい作りだった。それに傷がついたなんて。
「イザークは傷を消すのを拒否しました」
「傷を・・・残す、のか」
 プラントの医療技術をもってすれば傷跡を残さずに元通りにすることなど何の問題もないはずで、それは軍艦の中においても対応できるレベルの手術だ。それを拒否するというのは傷をわざと残すということに他ならない。
「イザークは相当に悔しいんでしょうね。ストライクを討つまでは消さないつもりのようですし」
「ストライクを・・・」
 呆然と言葉にするアスランにニコルはその顔を見上げる。
「ストライクのこと・・・どうしてあのとき撃たなかったんですか、アスラン」
 アカデミーの主席の少年はどんなときでも冷静で、ミスなどありえなかった。だからこそニコルは全幅の信頼を寄せていたというのに、フェイズシフトダウンしたストライクを前にしたときのアスランの行動は理解できなかった。アスランの技術ならあの状況で撃ち落すことは何の問題もなかったはずなのにそれをせず、イザークが撃とうとしていたストライクを突如捕獲するという命令無視の行動に出たのだ。
「・・・あのとき言ったとおりだよ、捕獲できるなら捕獲した方がいいと判断したからだ」
 そういうとアスランはそのままニコルに背中を向けて出て行こうとする。
「アスラン?イザークの様子はいいんですか」
 ここへ駆け込んできたときは、イザークを酷く心配していたというのに、説明をしたらその興味は失せてしまったかのようだ。
「部屋にいるのか」
 誰が、と明確にしない問いにニコルは頷いて肯定した。
「まだ点滴を受けていて待機扱いですから」
 傷跡の処理を別にしても、いくらコー下ディネーターとはいえ怪我の治療には数日の時間を要する。手術が必要なレベルの怪我だとしたら、まだ一日しか経っていないのだから寝ていなくちゃならないだろう。
「それなら後で行くよ。もっとも俺の顔なんてみたら激怒するかもしれないから行かない方がいいのかな」
 傷に悪いだろうし、と自嘲気味に笑うのはイザークがアスランを毛嫌いしているからだった。アカデミー時代からのライバル関係は自他とも認めるイザークの一方的なアスラン嫌いが原因で、それは配属された部隊が同じだったおかげで今も続いている。
「そんなことは・・・」
 自信なく言いかけたニコルはアスランの影が差す横顔を見て慌てて言葉を付け加えた。「戻ってきたのに顔を見せないとまた何か言うに決まってますから、行くだけでも行った方がいいと思います」
 その言葉が本当かどうかはニコルにもわからないが少なくともニコルの気持ちとしてはいくら仲が良くなくても見舞いくらいは行ってやってほしい。同じ部隊の同僚で数少ない「赤」を纏う仲間なのだから。
「それもそうだな」
 そうしてアスランは頷くとさっきよりは幾分穏やかな顔になりドアの外へ消えて行った。

「ぁ・・・」
 その姿は予想もしないほどに痛々しかった。
 もしかしたら無意識にそんな姿を思い描くことを拒否していたのかもしれない。ニコルの話を聞いていたのだから傷の位置だって、包帯を巻いていることだってわかっていたのだから。
 そのあまりに間の抜けた声に部屋の主はベッドに腰掛けた姿勢で苛立ちのままに視線を上げた。
「何の用だ」
 非常事態を想定して艦の中の居室にはロックをかけないのが普通で、その部屋もロックは掛かっておらずアスランはあっけなく部屋の中へ踏み入れることに成功したが、その目に飛び込んできた光景に虚を突かれたようになって思わず声を上げてしまったのだった。 低い声はいつもアスランに突っかかるときとは違う静かな怒りに震えているのがわかった。
「こっちに戻ったから・・・その怪我をしたって聞いて・・・」
「笑いに来たのか」
「違・・・っ」
 アスランが旨く言葉を継げなかったのはイザークが包帯の上から覆っていた手を下ろしたからだ。仰々しいほどに白皙の顔にまきつく包帯は、イザークの秀麗な顔の造作を見事に隠し切っていた。それはアスランが思っていたよりも傷が大きいのだろうことを示していて、胸が痛くなった。
「違う・・・?ならなんでわざわざ来る?」
 イザークの居室に来るなんて確かに事務的な用がなければしたこともなかった。訪問の理由は自分がいないところで怪我をした同僚を見舞うという名目だったはずだが、改めてどうしてかと問われると答えに窮してしまう。
「それは・・・」
 イザークの怪我はアスランなんかが見舞ったところでどうにもなるものなんかじゃない。ましてや、ストライクに関しては一度ミスをしてイザークを怒らせてもいるのだから、そのイザークに怪我を負わせた相手がストライクだと知っているなら、来るべきではなかったのかもしれない。アスランの存在はイザークにしてみればストライクのことそのものを思い出させる嫌なやつに違いないだろうから。
 こんな、本人を目の前にした状況でそんなことに気がついたって遅すぎる。すでにイザークは怒りに燃え滾る目でアスランを睨みつけているし、今さら何も言わずに立ち去ることも許されない。
 どうしたらいいのだろうか、そんな思いで彷徨わせた視線に何を思ったのかイザークは巻きついている包帯に手をかけると一気にそれを引き剥がした。
「イザークっ!」
 止めるのも間に合わずにするすると解けていく白い包帯は段々とイザークの顔の右半分をあらわにしていく。そしてアスランが今度は声にもならない驚きで息を吸い込むと、それに気がついたイザークはふっと鼻で笑った。
「どうせなら目をやられていた方がよかったか? 目障りな俺がクルーゼ隊から飛ばされたかもしれないしな」
 プラントの医療技術を持ってすればおそらく視力の回復だって可能だろうが、それにはある程度長期の入院は避けられなくなるだろうし、そうすれば戦線から離脱することになるのは明白だ。
「俺はストライクの存在とナチュラルなんかにこんな傷を負った自分が許せない。だから傷は消さない・・・。貴様はストライクを捕獲したいようだが次に俺の前に現われたときは絶対に沈めてやる」
 アスランへの痛烈な皮肉を吐きながらぎりぎりと拳を握り締める。それに対する言葉をアスランは持っていなかった。
 ナチュラルじゃない・・・。
 あのパイロットは自分たちと同じコーディネーターなのだ。そしておそらく自分たち赤と同じくらい優秀な能力を持った少年が、トリコロールの機体を操縦している。
 思わず口を突いて出そうになった言葉を引きとめたのは、もしかしたら保身だったのかもしれない。相手のパイロットと幼馴染であることが同僚にしれたらあのとき捕獲に転じた自分の判断は利敵行為と見なされる可能性だってゼロじゃなかった。それに何より自分はこのクルーゼ隊の中での立場を失いたくはなかった。ヘリオポリスでの戦友の死という出来事さえも乗り越えて仲間としての意識がどこかになるからなのか、ニコルやディアッカやそしてイザークのいるこの艦はアスランにとっては単なる母艦以上の意味をもっていた。だがそれを伝えるきっかけもつもりもなかった。そんなことをしたらここまで続いた自分たちのバランスが崩れてしまうだろうからそれは何よりもしたくなかった。
「それは君の判断だ」
 短く言ったアスランをイザークはまるで敵を見るような目で睨みつけた。
「あぁそうだな!あのときの捕獲失敗は、貴様の勝手な判断だったからな」
 苦々しく言い放つ声は悔しさに震えている。
 こんなイザークなんて見たこともなかった。アスランとの勝負に敗れたときでさえ、どこか余裕がある悔しさだったのだと今ならばわかる。本当にプライドを踏みにじられたイザークはまるで幽鬼のような目つきでストライクを呪おうかという禍々しい気配さえ漂わせている。サル以下だと見下しているナチュラルに敗れたという一点が彼のプライドをずたずたにしているに違いなかった。
 居たたまれなくなったアスランは何も言わずにその部屋を飛び出した。

 憎い。
 突然現われて自分を戸惑いの渦に突き落としたキラの存在が憎かった。つい数時間前までは同胞なのにナチュラルの味方をし続ける幼馴染のことを苛立たしく思っていた。
 だけど、今は違う。
 イザークの傷を負った姿を見たときにその苛立ちはたちまちに憎しみに変わっていった。
 こんなふうにイザークのことを顔だけじゃなくそのプライドさえも傷つけているのに、何も知らない子供みたいな理屈でストライクに乗っているキラが許せなかった。説得の言葉も意味を成さず、幼馴染だと思っていた自分に「友達がいるから」と背中を向けたのだ。
 キラはもう敵だ。傷つけたくないと願った相手は自分の味方を傷つける存在なのだから敵以外の何物でもない。もう幼馴染でも親友でもない。ただの連合のパイロットなのだ。

 部屋のベッドの上で考えを巡らせていたアスランはふとそのことに気がついた。
 自分がキラのことを打ち明けられなかったのはどうしてだ? 敵だと思ったのならどうして話せない?
 いや、違う。
 どうしてキラを敵だと思ったんだ? 隊長に遠まわしに確認されたときでさえ割り切ることができなかったというのに、それがどうしてこんなにはっきりと敵として認められた・・・?
 自分の思考の残像を遡って、アスランはそれにたどり着いた。
 天秤が傾いたのだ。
 キラは親友だから撃ちたくなかった。だがそのキラがイザークを傷つけたと知って、キラの存在は「かつての大切な存在」だと心の中の天秤が大きくその傾きを変えた。キラよりもイザークはずっとずっと大切な存在だと。
 キラを撃ちたくなかった。だけど、自分にとってイザークはキラなんかに撃たせたくない存在で、いや、どんな理由であっても失いたくない人なんだと、今ははっきりとわかる。

「そうなんだ、俺はイザークを失いたくない・・・。どんなことがあっても、たとえキラ、お前をを傷つけることになったとしても・・・俺にはイザークが大切なんだ」

 そしてアスランはその気持ちを封印した。
 淡い恋のような気持ちが確かな恋に変わったとしても、自分は今以上の関係を望むつもりはなかったし、もし自分の気持ちを知られて唯一無二のライバルという立場を失うことになるとしたら、それはイザークを失うのと同じことを意味していたから。
 

  ■■■


「なんで・・・」
 言葉に詰まったイザークの後を継いでアスランは繰り返す。
「なんで今頃言うのかって?」
 答える代わりにアスランは立ったままでいるイザークの腕を強く引いた。バランスを崩したイザークは床の上に正座するように膝をつく。
「君を失うのが怖かったんだ」
「アスラン・・・」
 あぁやっぱりどうしてこんなときに気づいてしまうのだろう。イザークの言葉の、その震えなんかに。
「戦争が終わったら言おうと思っていたころは、軍に属しているのなんて一時的なものだと思っていたんだ。同僚でいるときにいうつもりは無かったんだよ。そんなことして君との関係が壊れてしまうくらいなら言わないでいようって決めていたから」
 そして時間の狭間に想いを告げる機会は奪われた。それどころか敵対する立場に身を置くことになって二度と会うことすらなくなったと思っていたのだ。
「もう二度と会うことなんてないと思ってたから、必死に整理つけてしまいこんでたのにさ」
 
 現れたときの驚きは隠しようもなかった。
 前線にいるはずの隊長はホテルに迎えになどやってきて。そっけなく接するのかと思ったらそれどころかちっとも変わらずむしろパワーアップしてるんじゃないだろうかってくらいの勢いでぶちきれて襟首を締め上げてまで怒鳴りつけて。

「あれにはやられたよ。一体どんな顔をしたらいいのかって思う暇もなかった」
 ぽかんとした顔を思い出してイザークも笑う。
「あのマヌケ面は見ものだったがな」
 再会して、思い知った。
「だけど、あんなことされて嬉しいなんて自分も馬鹿だと思ったよ。整理なんて全然できてなくてただ単に自分の中にある気持ちに見ないフリをしてただけなんだって思い知ってさ」
 イザークに会えたことが。
 イザークが変わらないことが、嬉しくて仕方が無かった。
「だけどいつも君の言葉が俺の決心を裏切るんだ」
「裏切る?」
「言いたいことを言えない状況に俺を追い込むから」
 同僚でいるなら告げるつもりはないのだと言った。そしてあのときイザークが言ったのはザフトに戻れということだった。それは即ちアスランの想いを封じることに他ならない。
「そんなこと、俺は知らんっ」
「うん、わかってるよ」
 すべてはアスラン自身の問題だ。ザフトに戻ることも思いを告げないことも。それをイザークのせいにしているのはただの甘えだし、もちろん本気なんかじゃない。

「本当はどこかで怖かったんだ」
「怖いだと?」
「君を失うことが・・・というか嫌われることが、かな」
 思いを告げることは友としての、同僚としての立場を失う覚悟が必要だった。だけどそんなのは言い訳にしかすぎなくて、本当は好きだなんて告白したら「腰抜け」じゃすまないくらいに馬鹿にされて嫌悪でもされるんじゃないかとずっと思っていた。
「だって君は俺を嫌っていたし、俺たちは男だろう?」
 気高く誇り高きイザーク・ジュールは女みたいだといわれることを何より嫌っていた。ましてや男に好かれたとなればどんなに怒るかわからない。
「それがどうして今頃になって」
 男同士だと気にするのなら今までだってこれからだって変わらないのに。
「言っただろ、失うのが怖かったって。だけどもうその心配も必要ないから」
 告げられてハッと顔をあげる。
 まっすぐに自分を見つめるエメラルドの瞳がそこにはあった。
「・・・」
「俺はもうオーブの住人だ。だから滅多なことじゃプラントには来られない」
 失う心配がないというのは、もう手の届かないところにいってしまうということだ。

 カーペンタリアの長い廊下が脳裏に蘇る。
 あの時は今よりもずっと会えるかどうかが不確定だった。会えないことは命を失うことを意味していて、それを強く否定することで再会を信じることができた。
 だが、今は違う。
 会えなくなることは永遠の別れじゃない。戦争が終わったのだから命の危険はないに等しいけれど、アスランの決めた道からしたらイザークなんかには会えない方がいいのだ。相手方の軍の人間なんかに頻繁に会うようじゃ平和とはいえないだろうから。自分たちが望むのは自分たち軍人が暇になってしまうような世界なのだ。
 アスランが選んだ未来に自分の居場所はない。それを理解してイザークは何かを言おうとするが言葉がうまく見つからなかった。

「だからって・・・」
「立つ鳥跡を濁しまくりだっていうのはわかってるよ」
 からかうように笑う。
 何か吹っ切れたような顔はアスランが言っていた覚悟のせいかもしれない。
「本当に濁しまくりだ!」
 ぐちゃぐちゃになっている自分の気持ちをどうしたらいいというのだ。混乱する頭の中がろくに働かないでイザークを苛立たせる。
「だけど今日になって、もっと早く言えばよかったって思ったよ」
 小さな後悔をこめてアスランが言う。
「今日になってだと?」
「君の言葉がいけないんだよ、イザーク」
「俺の・・・?何も言ってなんか・・・」
「『今頃になって』って言ったじゃないか」
 やり取りを思い返すと確かにそんなことを言ったと思う。だがそれがどうして責められる理由になるのだ。
「君はもっと自分の発言の影響力を考えたほうがいいんじゃないか?そんなんじゃディアッカは苦労したんだろうね」
 隊長と副官というアカデミー時代の同僚の関係をおそらく的確に言い当てる。
「うるさい、貴様には関係ない」
「関係あるよ。『今頃になって』なんて、まるでイザークも俺と同じようにずっと片思いしてたみたいじゃないか」
 期待させるような言葉は時と場合によっては人を深く傷つける。本人の意図に関わらず。
「っそれは・・・」
 言葉を飲み込むイザークの腕は掴まれたまま放されはしない。さまよう視線に、アスランは座っているままで強く腕を引いた。つんのめるようにその身体がアスランの腕の中に抱きとめられる。
「・・・っ」
 ふわりと銀色の髪が空に舞う。
「殴られないのは肯定だと受け止めてもいいんだよね?」
 イザークが本気ならこの体勢からだって立ち上がってアスランを蹴り飛ばすことはいくらだってできるはずだ。だがその身体はおろか腕にさえ力が入る気配もない。
「・・・今頃だ」
 その声はとても小さくて気を抜いていたら聞き逃すところだった。
「当たり前だろう、そんなの!俺たちはここにいたときからずっと一緒だったんだ。いくらだって時間なんてあったじゃないか!」
 毎日毎日顔を合わせては勝負してばかりだった。軍学校とはいっても命のやり取りとは遠いところで共に毎日を過ごしていたのに。
 会えなくなるとわかったから、会わずに済むから思いを告げるなんて。
「貴様はやっぱり腰抜けだ・・・」
 震える声が耳に響く。
「ひどいな」 
 小さく苦笑しながらその身体を抱きしめる。腕の中のイザークはしっかりとその温もりを伝えていた。
「俺はあのときだ」
「あのとき?」
 ポツリと呟かれた言葉をそのままに聞き返す。
「どっかの腰抜け隊長が消息不明でMIA寸前に戻ってきたときだ」
 それがいつの話なのかというのは言うまでもなかった。
「怒鳴りつけて殴り飛ばしてやろうと思ってたのに、顔を見たら一言しか言えなくなった・・・安心したんだ、また元に戻れると思ったらな」
 たしかにあのときの罵声は一言だけでどこか拍子抜けした記憶がある。
「元に・・・」
「あぁ。ムカついて怒鳴りつけて、いつでもチェスができる距離に当たり前にいるってことだ」
 目を合わせず、アスランの肩に頬を預けるようにしたままそんなことを告げられた。
「いつでもチェス、ね・・・」
 イザークらしい言葉にアスランは小さく笑う。なるほど思い返してみればいろんな勝負のなかでイザークはチェスが一番好きらしかったと思い出していたら、まだ言葉が続いた。
「アスランまでいなくなったと思ったらガタガタと膝が震えた・・・。一人で部屋にいたときだがな・・・信じられるか?この俺が怖くて震えてるんだぞ」
「・・・イザーク」
 呼ばれた名前にふと、預けていた体を起こすとすぐ目の前にイザークの顔があった。
「あぁ勘違いするんじゃないぞ、戦争が怖いとかじゃなくてだな、だからアスランがいなくなることが信じられなくて・・・信じたくなくて・・・」
 そのときのことを思い出したかのようにどこか遠くを見るような目をして言葉が途切れる。
「『腰抜けが!馬鹿野郎』って怒鳴りながら壁を蹴りつけて、どうしてこんなにアスランのことで頭の中がいっぱいで胸が苦しいんだろうって思った」
「そんなときまで『腰抜け』なのか。本当に君は酷いな」
 苦笑交じりに言う声は言葉遊びを楽しんでいるかのような軽やかな響きさえある。
「仕方ないだろう、俺の中で貴様は『腰抜け』なんだからな!実際、敵と相打ちになってオーブに拾われる隊長なんて腰抜けで十分だ」
 ふん、といつもどおりに笑い飛ばすイザークに、その腕で少しだけ近く抱き寄せながら先を促した。
「それで『どうして』の答えはどんなふうに出たわけ?」
「・・・全部言わせるな」
 睨み付ける瞳と裏腹に声のトーンは情けないくらいに弱かった。まるでイザークの言う『腰抜け』の見本みたいに。
「言えないなんてイザークまで『腰抜け』になったとは知らなかったな」
 皮肉っぽく笑うアスランに小さく舌打ちすると嫌々というふうにイザークは口を開く。
「答えなんて出るに決まってるだろう!俺は優秀なコーディネーターなんだ、すぐに答えはわかったさ」
 その先を催促する緑柱石の瞳にあきらめたようにため息をつくとイザークは一気にその答えを明かした。
「貴様の存在が俺の中で大きかったんだよ!腰抜けって言いながら、負けると悔しいくせに貴様がいないなんてあり得ないんだ。いつも傍にいるのが当たり前で全然わからなかったけどな、あぁそうさ!俺は貴様が・・・アスランのことが好きになってたんだよ」

 アスランが行方不明だと知らされたときのぽっかりと胸の中に穴が開いたようなあの喪失感をどう表現したらいいのかわからない。きっと最愛の人を失った軍人の家族たちはこんな気持ちなのだろうと他人事のように思いながら、突然、落雷に打たれたように自分が大切なものを失うかもしれないのだと気がついた。
 気がついたとたんにガクガクと膝が震えだして立っていることすら満足にできなくなっていた。悔しいけれどアスランが自分よりも優秀なのは事実だったから、自分の前からいなくなることなんて考えたこともなかったのだ。当たり前だったことがそうじゃなくなるということはまるで世界がひっくり返るような衝撃だった。そしてそれはとてつもない恐怖も呼び起こした。

「怖い、なんて思ったのは初めてだった・・・子供の頃のお化けが怖いっての以来だな。俺には不可能なことなんてなくて何かを怖がる必要なんてなかったからな」
 勢いよく告白したあとにそんなことを付け加えてようやくイザークは口を閉じた。目蓋を伏せて長くゆっくりと息を吐き出す銀髪のその人をゆっくりとアスランは抱きしめた。
「君がそんなことを思っているなんて知らなかった」
「当たり前だ!貴様に知られるなんて御免だからな」

 お互いに隠してきた想いがあるなんて知りもせずにあのときはただの同僚として再会を願って握手を交わした。
 だけど、今は――。
 
「じゃあ知った今はどうするんだい?」
 またあのときと同じように握手を交わすだけで別れるのもきっとできないことじゃないだろう。だけど、今はもうそれだけじゃ済みそうになかった。
「知るか!」
 短い、吐き捨てるような言葉にまたアスランは苦笑した。
「君が知らないのなら、俺が教えるしかないよね」
 きっと、優秀なコーディネーターのイザークは自分が何を言い出すのかなんてとっくにわかっているはずだった。イザークのことが好きだと告げたそのときから。
 俯いたままの頬に指先で触れると、ゆっくりと透き通ったブルーの宝石が現われた。それがまっすぐに見つめて、アスランの顔が映し出される。
「好きな人にはキスしたいって思うんだけど・・・君は違う?」
 その言葉にイザークがふっと笑った。
「相変わらず、貴様は腰抜けらしいな。自分の思ってることに自信がないのか」
 それにアスランは自信たっぷりに満面の笑みで答える。
「いや、そんなことないよ」
 藍と銀が触れ合うほどに近づくと、再びブルーの宝石は閉じた目蓋の下に隠されていく。
 一瞬だけ、そっと唇に触れて伺うように覗き込むと、そこには見たこともないイザークがいた。
 柔らかく笑みを浮かべて嬉しそうにしながら、照れくさいのかどこかふてくされたように唇を尖らせて。
 堪らずになってアスランはイザークを強く抱きしめる。
 二度目の口付けはまるで呼吸を忘れたかのように唇が離れることもなく、熱く、とめどないものだった。いつのまにかアスランの体をイザークも抱きしめていた。

 どれくらい時間が経ったのかわからない。
 気がついたときはアスランの腕の中にイザークは抱きしめられていた。その胸に寄りかかるようにして抱きしめられたイザークが呟く。
「あのとき本当は手を貸してやるだけじゃなくて、貴様のことを思い切り抱きしめたかった」
 白状するような口調に思い当たってアスランは頷いた。
「あれだけでも十分に驚いたけどね」
 片腕を吊るしていた自分にイザークが手を差し伸べたことだけでも驚きだったのに抱きしめられていたらどうなっていたのだろう。もしかしたら今の自分とはまるで違う道を歩んでいたかもしれない。イザークの傍にいてイザークと一緒に。

 だけど、自分はもう決めたのだ。
 
 大切な人を抱きしめたアスランの目に映った空は地球と比べたらどこか鈍い色をしているのになんだかとても暖かい。
「あぁこれがプラントの空の色だ」
 地球の空の色は強く濃い青をしていて、それは本物の空を知らないアスランにはときに不気味なほど美しすぎる。
「あっちの本物より劣るんだろう?」
 地球、という言葉を遣わないイザークの思いがアスランにはわかった。
「そうかもしれない。でも俺にはこの色が本物の空の色だと思えるんだ」
 宇宙に作られた人工の星。それでもアスランにとっては生まれ育った故郷で愛すべき国だった。
「パステルブルーだな」
 一緒になって有限の空を見上げながらイザークが言った。
「パステルブルー?」
「鮮やかな青ではないが、柔らかく温かみのある色だろう。俺もこの色は嫌いじゃない」
イザークが首を傾けてきてサラサラと絹糸のような銀の髪がアスランの頬に触れた。
「この空の色を忘れるなよ」
 それはもうプラントには戻らないと決意したアスランへのはなむけの言葉だった。たとえそれによって、自分の想う人と会うことができなくなるとしても、イザークはアスランの背中を押すしかなかった。ここまでのアスランの葛藤を思えば、たった今成就したばかりの恋のために引き止めることはできるはずもない。
「うん・・・」
「離れてたって生きてるんだ。それで十分だろう、俺たちには」
 想いを寄せる相手も自分を想っているなんて、好きだという想いを告げられなかったころには思いもしないことだった。そして両想いの恋は幸せなのだとずっと信じていたのに、そうではない結末もあるのだということも想像したこともなかった。
 だけどそれが自分たちの現実だった。
「君と一緒に見るこの空の色はずっと忘れられないよ」
 そう言ってアスランは自分の気持ちが揺るがないように、腕の中のイザークを強く抱きしめなおす。
 好きな人と一緒に、好きな人を抱きしめて、キスを交わしたこの春の空の色をきっとお互いに一生忘れることはできないだろう。
 言葉を探すことはせずにイザークの瞳が伏せられた。
 『好きだ』という言はふたたび心の中に閉じ込める。
 告げることはない言葉の代わりに贈りあうのは、優しい口付けだけだった。
 


FIN.


fin.



初出『Pastel Color』
2007.4.15






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