がしゃん、とチェスのボードが裏返された。
駒はテーブルから転がり落ち、リノリウムの床で跳ねて散る。
「イザーク…」
ため息をつきながら見上げると、顔を真っ赤にして悔しがるイザーク・ジュールがいる。
「あのさ」
「うるさいっ、何も言うな! 貴様の言うことなんて俺は聞かないぞ」
あぁ、そういうことじゃないのに。
敗因は15手目だ。
せっかちなイザークはそこで攻めることばかりを急いで防御を怠った。それを見過ごすことはできなかった。もし見過ごしたらそれはそれで面倒くさいのだけれど。イザークはいつでも手を抜くことを許さない。たとえそれがうっかりしたケアレスミスだとしても、馬鹿にしているのか、とわんわんとわめきたてる。だから、イザークのミスを見逃さずに攻勢をかけた。
形勢が不利になっていくと表情がわかりやすく変わっていく。それでも負けるわけにはいかない、と気を抜かずにいるとイザークがさらにミスを犯した。それが決定的だった。
「…っ」
自分が駒から手を離した瞬間にミスに気づいたイザークは、息を呑んだ。だけど、それに構わず俺は最良の一手を繰り出す。
もう後戻りはできなかった。それからは坂道を転げ落ちるように、イザークの形成は悪くなり続け、そして行き詰る。
「チェックメイト!」
控えめに宣言するとイザークはわなわなと震えだす。
「これで、俺の15勝11敗だね」
淡々と告げると次の瞬間にボードが空中を回転した。
悔しそうにしているイザークを無視して、俺は床に落ちた駒を拾い上げる。あちこちに散らばった駒を失くさないように集めるのは毎回俺の仕事だ。自分が勝ったときにしゃがみこんで駒を拾うというのはなんだか納得いかないが、イザークが相手なのだから仕方がない。イザークが勝ったときにはしないで済む作業だが、そのときはそのときで負けているのだから楽しくはない。俺だってイザークほどじゃなくても負けたくないと思っているから。
だから結局イザークとのチェスは勝っても負けても晴れやかな気分には程遠いのだ。
なのになぜ、俺はイザークの相手をし続けているのかというと。
「もう1ゲームやろうか?」
固まったままのイザークにそう提案すると、青い目をぱっと輝かせてイザークは顔を上げた。
どうしてこんなにわかりやすいんだろう。彼は母親の愛情をたくさん受けて育てられたのだろうな、と思わずにはいられない。
「ただし、時間制限は夕食の時間までだ。それと」
言葉を止めてその顔を見ると、何事を言われるのだろうかと訝しむ顔があった。
「駒の準備はイザークがやってくれないか。君の散らかした駒を拾ってやったんだ、それくらいしてくれるよね」
その内容に頷くとイザークは嬉々としてボードの上に集められた駒を一つ一つ並べ始める。それはまるで子供が新しい遊びをわくわくして準備している姿のようで、思わず顔がほころんでしまう。
本当は、イザークとの勝負のあとで新しいハロを組み立てるつもりだった。週末のラクスのコンサートは何があっても行かなければならないと釘を刺されている。そのときに手ぶらでは申し訳ないから、かといって他になにも思いつかず結局ハロのパーツを取り寄せたのだけれど。そんな義務に駆られた作業よりもイザークとの勝負のほうが実際楽しい。
ころころ変わる表情はまるで動物のようで見ていて飽きないし、本当に彼の顔は綺麗だから、少しでも近くで見られるのはそれだけで価値があると思える。飾り立てないイザークに一番近くにいられるのはチェスをしているときだけだと俺は知っているから。
おかげで明日は徹夜になるだろうと思ったが、それは仕方がない。そんな自分と目の前のイザークに小さくため息をつく。
「できたぞ!」
きれいにそろった駒を前にイザークは得意になって言う。それに俺は頷いて、椅子から立ち上がる。
「アスラン?」
近寄ってきた俺に不思議そうな顔をしてイザークは座ったまま見上げてくる。
「リトライ料金」
ささやいて顎を持ち上げると、掠めるように唇を奪う。
一瞬、驚いたイザークは、次の瞬間には何事もなかったように気を取り直して俺に告げる。
「勝負だ、アスラン」
そんなイザークを前にやれやれ、という言葉が思い浮かんだ。
どうにもこうにも。
そんなに嬉しそうな顔をされたら、断れないじゃないか。
結局、俺はイザークと同じように勝負をしたいのだ。
あぁ、きっと俺もイザークと同じようにうれしそうな顔をしているに違いない。
やれやれ、というのは誰のための言葉だろうか、とふと思いついて俺は苦笑した。
fin.
06/4/20
アスイザ好きさんに28のお題
NO.19 「やれやれ」