変わらぬ空

 ざわざわと、春風に水面が揺れていた。
 不規則な波はその風に乱されて浜辺に届く前に泡立って滲むように消えていく。計算されたプログラムでは起こりえない現象に不思議と目が離せなくなる。どれほどの時間その波を眺めていたのか、いつの間にか隣に立った青年の声にゆっくりと振り返った。
「軽い行方不明扱いになってたよ」
 君たち――。続く言葉のすべてを口にせずとも、言わんとすることなどその深い緑石の瞳だけで充分に読み取れる。望んだわけではなかったが、それくらいに濃い付き合いだった。あの頃は。
「気になるなら監視つければいいだろ」
 小さな崖の上、手近にあった石を投げるとドプンと波の合間に穴が開く。刹那に消えるそれはキラキラと太陽光のきらめきを水底へと深く道連れにしながら沈んでいった。彼が言う「軽い」がどの程度の騒ぎなのかは想像するまでもなく目に見える。
「君たち相手じゃどんな優秀な人間だって無駄だろ」
「自分以外には、か?」
 揶揄する言葉に紺色の髪の青年は音もなく小さく笑うと適度な距離をあけて芝草の上に腰を下ろした。おそらくこの青年が本気を出せば現役の軍人である自分ですらいまだに逃げるのは敵わないだろうということに何の疑問も混じらない。そのうえ、ここへ姿を現したのは容易に行き先の見当がついたからに違いなく、その意味でも逃げる気が失せる監視役には最適だった。
「それに君たちは客人だし」
「ホテルはとってあったのに、首長の招待受けたら無視もできないっつーの」
 おそらく誰がどう見たってその立場を考えれば最上級の客人だが、本人たちにその気はまったくないのだ。
「ちなみに行方不明だって騒いでるのもその首長だから」
 あぁ、と納得顔で首長夫妻の客人の一人は苦笑いを浮かべる。まるで日ごろの苦労を察して同情するかのように。きっと産休中のオーブ首長が家人を片っ端から捕まえては消えた客人の行方を尋ねているのだろう。
「黙って出てきたのは悪かったよ。けど、ちょっと散策してただけだぜ」
 午前中の予定を無視して部屋を与えられた首長の屋敷を朝食後にふらりと出たのは自分ではないと視線を向けると、穏やかな笑みで受け止められた。
「相変わらずみたいだね」
 何の感情も載せずに、ただ当たり前に。彼の行動をいさめるでもなく突き放すでもなくいつも一緒にいる二人を、昔からずっと今と同じ距離で見続けていたから。それは尊敬でも嫉妬でもなく、当たり前の関係ことなのだ。昔も今も。住む場所が違っても。
「まぁな」
 砂浜に続く方角から潮風に混じって遠くかすかな声が聞こえてくる。軍人としてかつて鍛えられた聴覚は些細な変化にさえ鋭く反応する。だがどちらも表情を変えることもなかった。風になびく草の葉のように、一瞬だけ声に顔を向けるだけで。近づいてくる砂を踏む足音も心地よいBGMだ。
「だけど、よかったのか」
 互いの性格の違いが端的に表れているのは座り方だな、と投げ出された足と軽く組まれた足を見比べる。そういえば、軍服の着方だっていつもその性格のとおりに違っていた。
「何がだよ」
 不意打ちはとおく風の向こうからではなくすぐ隣からやってきた。
「誕生日だろう、明日」
 情けないほど丸わかりに驚いた顔に愉快そうに笑われた。間もなく父親になる男の余裕ってやつだろうか、年下のくせに。
「ほんっと、お前って無駄なことまで覚えてるよな、アスラン」
「忘れるわけないだろう。艦の中でまで誰かの誕生日は必ず祝ってたんだから、あの頃は」
 あの頃は――。
 死と隣り合わせの灰色の青春。唯一おおっぴらに騒げるのは誰かの誕生日くらいだった。にがく悲しい、けれどどうしようもなく懐かしい思い出。潮風がじわじわと胸の奥に沁みていくみたいにしょっぱく甘く切ない時間。
「休暇取って地球に下りるって言ったのはイザークだから何考えてんのかは知らないけど。むしろいいんじゃない、節目には」
 すがすがしい気分になって空を仰ぐ。
 あれからもう十年も経つ事実に。
「それに、嬉しいし」
「嬉しい?」
「イザークの顔見てるのがさ。ポジションが違うんだよオレとは。唯一のライバルと認めた存在はお前だけだからな」
 会えて嬉しいなどと口にすることはないどころか、相変わらずに憎まれ口ばかり並べている彼が喜んでいるのは間違いない。
「それなら君は隣だろう。誰にも代わりが利かないその場所は」
 否定も肯定もせずゆるく微笑む客人の笑顔に割り込むように風に乗った声が勢いよく飛んでくる。
「アスラン!明日は予定空けろよ」
 退役して研究者に転身したはずの青年の体躯は変わらずすらり無駄なく鍛えられていて、潮風になびくきらめく銀色の髪はあのころよりも少しだけ短くなっていた。みおろす瞳は透き通るブルー。
「言われなくても空いてるよ。こんな時に空けてなかったら、君に怒鳴られるからね、イザーク」
 目を丸くしたイザークにディアッカは笑い、アスランは正反対に目を細めた。
「ところでディアッカ、君のリクエストは?」
『リクエストは?』
 不自由な軍生活の中で誕生日の人間だけに許された小さな特権。何でも我儘を聞いてやる――仲間内の決まりごとが今もまだ有効だなんて予想外過ぎる。
「……フン、記憶力だけは衰えてないようだな」
「そうらしいね、ディアッカにも今褒められたところだよ」
 ニコルは楽器演奏を求め、付け焼刃の室内楽団はアカデミーの入学基準に音楽的才能が必要とされていないことをこれでもかとばかりに裏付けた。
 そして尋ねられて記憶の底から掬いあげたものは。
「じゃあ、チェスの対戦で」
「チェス?」
 噛みつかんばかりに睨むイザークに苦笑しながら指さして示すのは自分以外の二人の胸元。
「もちろんイザークとアスランの。もう何年もやってないだろ」
 下手すれば二桁に突入しそうなほどの年月、近くても遠くてもそんな時間はもてなかった。
「いいのかそんなので」
 心配したのは地球に身を置く元同僚で。
「こいつはそれを見てるのが好きなんだろ昔から」
 身近な恋人は図星を指して満足げだ。
「そういうこと。考えてみりゃ、おまえらが真剣勝負するなんて今となっちゃ滅多にないレアケースだし」
 好きなのは自分の恋い慕う相手がただ一人にしか見せない真剣な顔をみていることだった。その顔だけは自分が逆立ちしたってみることができない顔だと知ったときから、傍観者のイスは特等席になった。
「そういうことなら、ディアッカには最高級のブランデーを用意しよう」
「酒の肴か。いいセンスしてるじゃん」
 それはどれだけ贅沢なことなのだろう、と記憶の自分がささやいた。かつての同僚が誕生日を覚えていることとか、もうかなわないと思っていたチェスの対戦をみていられるだとか。
「貴様は酒など飲むんじゃないぞ、やるなら真剣勝負だけだ」
 あの頃のまま、ライバルに噛みつく恋人の存在だとか。
「わかってるよ。あぁ、でもイザーク相手なら少しくらい飲んでも平気だと思うけど」
「なにを」
 まるで子供みたいなやり取りは底抜けにバカバカしくてタイムスリップしている気分になる。それぞれの立場も考えも抱えるものも年齢も、確実にあのころとは違うけれど、きっと根にあるわずかな部分だけはずっと変わらないでいるのだろう。この、頭上に広がる空と同じように。
 ピピピピピッ。
 突然けたたましいアラートがアスランの手首から響いた。公私を問わず首長府からの緊急の呼び出しを告げる音。
「あぁ時間切れだ。カガリがキレた……」
「う、」
「そりゃあ」
 殴りかかろうと振りかざしていた手を止めていかにも面倒くさそうにイザークが光に透ける髪をかきあげる。
「適当に言っておくよ。君たちはゆっくりしてくればいい。おそらく今日中にはカガリも誕生日のことを知って、明日はお祝い騒動で逃げられないだろうからね」
 ひらりと手をあげると音もなく立ち上がった青年は優雅な手つきでチノパンについた砂を払う。
「先に言っておくよ。誕生日おめでとうディアッカ」
「あ、あぁ。サンキュ」
「君も早く父親になったらいいのに。って、イザーク相手じゃ無理か」
 軽く落とされた爆弾にイザークは予想に反して表情を変えることはなかった。昔と違って。そしてなぜそんなことを口にしたアスランの意図が理解できた。もしかしたら隣に立つ恋人も同じことを思っているのじゃないかとうっすらと予想しながら。
 どんなに離れてもなにもなくてもずっと傍にいられる信頼がうらやましいとアスランが口にしたのはいつのことだっただろう。
 その言葉の意味と重さにディアッカは気づいてにやりと笑みを刷く。怖いものがなかったあの頃のように。
「俺らにはそんなのいらねーっつーの」
 イザークは無言。けれどアスランは満足げに笑った。
「あぁそうだな」
 軽やかな足取りで去っていく背中に小さな声が重なる。
「お前、まさか子供がほしいのか」
 その辺の美女だって敵わない横顔が微妙に曇る。予想外の事態に驚くよりもさきに吹き出した。
「なに、イザークって産めんの?」
「なにバカなこと言ってんだ」
「そういうこと」
「え」
「バカなこと言ってんなよ、らしくないぜ」
 普通とか当たり前とか、いまさらそんな価値観に揺さぶられるようなヌルい覚悟でそばにいるわけじゃない。このポジションを手に入れるには手放すものも少なからずあった。
「オレにとって唯一無二の存在だから。他にはいらないんだよ」
 それでも、自分は選んだのだという自負。見開かれる瞳の奥に揺れる波を見える。「イザーク・・・」という問いかけは波とキスの合間に消えた。
「あいつより遅れるのは納得いかないが、祝いの言葉は半日待て。そのかわり・・・・・・俺の側にいてくれて感謝してる」
 抱きしめたシャツの香りは潮風とお気に入りの香水が混じっていた。
「一緒に年を重ねていければそれだけで幸せだろ、オレらは」
 戦火の中で散っていった同僚たち。
「あぁ、そうだな」
 その痛み重みも分かちあえる相手だからこそ。そのことを忘れずに胸に刻み、ともに生きていけるという幸せを感受できる関係を。たぐり寄せるように握りしめた手のひらをそっと重ねあった。
「さぁて、それじゃ一泳ぎしますか」
 わざとらしく声を上げて両手を広げると、豪快に足をかけられる。
「いてっ」
「スタートダッシュは基本だろうが」
 潔く脱ぎ捨てられたシャツが空を舞う。
 きれいな弧を描いて飛び込む姿は無邪気な子供のようだ。
「ひでぇな」 
 腹の底から笑う声が広い空に響いた。
 また一ページ、人生の記録が増えていく。大好きな人とともに。




HAPPY BIRTHDAY DEARKA!


2012.8.9